フロイト「マジック・メモについてのノート」より

「自分の記憶に自信をもてない場合は――神経症者は驚くほど自分の記憶を信用しないが、正常な人でも自分の記憶を疑う理由はあるわけである――記憶の機能を補い、確保するために、文書としてメモを取ることができる。このメモを保存する表面、記録ボード、あるいは白紙は、わたしの中に不可視な形で維持されている記憶装置のいわば物質的な部分である。このようにして固定された「記憶」が格納されている場所を覚えてさえいれば、いつでも任意にこれを「再現する」ことができる。そしてこれが不変なまま維持され、わたしの記憶で発生する可能性のある歪曲を免れることを、確信できるのである。
 わたしが自分の記憶機能を向上させるためのこの技法を十分に活用したい場合には、二つの方法がある。一つの方法は、記録したメモが不特定の長い期間にわたって無傷のまま保存されるように、表記する表面を選ぶことである――白紙にインクで文字を書くのである。これによって「持続的な記憶痕跡」を保存することができる。この方式の欠点は、表記できる表面の受け入れ能力がすぐに尽きてしまうことにある。白紙の全面に書き込んでしまうと、もはやメモを書く余地はなくなり、まだ書き込まれていない別の白紙を用意しなければならなくなる。さらに、「持続的な痕跡」を提供できるというこの方式の長所の価値が失われることがある。時間がたって、メモに対する関心が失われ、もはや「記憶に保つ」ことが望ましくなくなる場合があるのである。第二の方法には、この両方の欠点がない。たとえば石盤にチョークでなにか書くとする。この石盤は、無限の時間にわたって文字を受け入れる能力をもつ〈受け入れ表面〉となる。そして記録された内容に関心を失ってしまった場合にも、[白紙の場合とは異なり]石盤そのものを捨てる必要はなく、メモだけを抹消することができる。この方式の欠点は、これが持続的な痕跡を保存できないことにある。石盤の上に新しいメモを書こうとすると、その前に、すでに記録されていた内容を消去しなければならない。このように、われわれが記憶装置の代用として使用する道具においては、情報を無限に受け入れる能力と、持続的な痕跡の保存は、互いに排除しあう特性と考えられる。受け入れ表面を更新するか、メモを破棄するかのどちらかなのである。
 これまで、人間の感覚機能の改善または強化のために発明されてきたすべての形式の補助的な装置は、人間の感覚器官そのものか、その一部を手本として構成されている――眼鏡、カメラ、聴診器などである。これを基準として考えると、記憶のための補助的な装置には大きな欠陥があるようである。人間の心的な装置は、こうした補助的な装置では不可能なことを行っているからである。心的な装置は、つねに新たな知覚を無限に受け入れることができ、同時に知覚の永続的な記憶痕跡を維持することができる(内容に変更が加えられないわけではないとしても)。すでに1900年の『夢の解釈』において、この心的な装置の異例な能力は、二つの異なるシステム(あるいは心的な装置としての二つの異なる器官)の能力に分割できるという推測を述べておいた。一つは知覚‐意識(W-Bw)システムで、これは知覚内容を保存するが、その持続的な痕跡を保存しない。これによって、新しい知覚を受け取るたびに、まだ書かれていない白紙のようにふるまうことができるのである。もう一つはこのシステムの下にある「記憶システム」で、これが受け入れた興奮の持続的な痕跡を保存する。その後『快感原則の彼岸』において、知覚システムにおいて発生する意識という説明不可能な現象は、持続的な痕跡の〈代わりに〉発生するのであるという見解を付け加えた。
 しばらく前から、「マジック・メモ」という名前の小さな道具が市販されている。これは白紙や石盤よりも優れた記憶保存能力を備えている道具であり、手で操作するだけで記載内容を消去することのできる記録ボードである。しかしこの装置を詳細に検討してみると、その構成は人間の知覚装置についてわたしが考案した構造的な仮説と、きわめて類似していることがわかる。この装置は、いつでも新たな受け入れ能力を提供すると同時に、記録したメモの持続的な痕跡を維持するという二つの能力を備えていることを確信できるのである。」

ジークムント・フロイト『自我論集』竹田青嗣編/中山元訳、ちくま学芸文庫、1996年、305~307ページ。

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