逸身喜一郎『ラテン文学を読む』より

「ルクレーティウスの『事物の本性について』は、本書「はじめに」でも少し言及したが、万物の生成やエピクーロスの原子論を詩であらわしている。こうしたいわば「学問詩」とでもいうべき流れがギリシャ以来続いているのである。「はじめに」で分類の恣意性をたとえて岩波文庫を引いたが、今後、かりに翻訳されたならどれも岩波文庫の青帯に入りそうな作品の系譜である。従来、これらは「教訓詩」と呼ばれてきたが(これは英語のdidactic poetryの翻訳語である)、取り扱われている題材は人生の教訓に限らない。むしろ広義の--それも最大限、意味を広げてーー「哲学詩」、ないしそれよりも「学問詩」というほうがふさわしいと思われる。単純にいえば、そこでは物語ないし神話が主になっていない。
 ルクレーティウスよりおそらく20年ほど後に作られた、ウェルギリウスの『農耕詩』もその系譜に属す。小麦の耕作(第1巻)、果樹栽培(第2巻)、牧畜(第3巻)、養蜂(第4巻)を題材にしているけれども、しかし農業の技術書ではない。むしろ技術書として眺めれば間違いも多いし、たぶん役にたたない。では何が書いてあるか。これが表現しづらいところであるが、大自然の観察であり、そこからわきあがってくる想いであり、農業を営む人間と自然との関係の考察である。それは農業をなりたたしめるイタリアの風土への賛美にもなる。」

逸身喜一郎『ラテン文学を読む ウェルギリウスとホラーティウス』岩波書店、2011年、68〜69ページ。

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