青天客思

栗脇永翔(くりわき・ひさと)です。フランスの詩や哲学の翻訳をしています。少し前までは日・仏の大学に籍を置き、文学や哲学の研究に従事していましたが、この秋、晴れて(?)、そこから完全に解放されるにいたりました。少し寂しいような、ほっとしたような、複雑な感情があります。大学から離れせいせいしたというような思いもありますし、何らかの仕方で大学に戻る方法を模索しようというような思いもあります。何にせよ、良くも悪くも「宙吊り」の状態に置かれることになりました。いまはオンラインでフランス語を教えたり、とある学習塾で受験生の指導をしたりして日々を過ごしています(それらのことも、今後、ここに書くことがあるかも知れません)。

そこで、いま思うのは、わたし自身にとって「書く」という営みが何であるかということです。大学で書くことが求められるのは、まず、何よりも「研究論文」でした。これは学内の紀要や学会誌に発表される文章で、基本的には、ほかの専門家たちに「ピア・レビュー」をしてもらい、価値が担保されるものです。ひと言で言えば、特殊な書き物だと思います。言うまでもなく、今日では、誰もがネット上で好きなことを書き、発表し、不特定多数のひとにそれを読んでもらうことができます。誰のチェックも無しに、文章を発表できるのです(まさにnoteはそのような場かと思います)。すごく単純化して言えば、この数年間、わたしはこのふたつの極に引き裂かれていました。一方で「研究論文」を書かなければならない、もう一方でネット上で自由にものを書くこともできる。本当はそのあいだでうまくバランスを取るのが現代の「模範的な大学人」なのでしょうが、正直に言えば、その関係がよくわからなくなっていた時期がありました。「研究論文=善、ネットの書き物=悪」、というほど単純化はしないにしても、どうも両立できなかったのです。一時期はTwitterもやっていましたが、それもやめてしまいました(その選択は決して悪いものではなかったと思いますが)。

こういう場なのでラフに書きますが、簡単に言えば、「ものを書く」ということが何なのか、よくわからなくなっていたのです。実際、結局、あまり沢山の「研究論文」は書けませんでした。「学位論文」が忙しかったというのもあるのですが、コンスタントに「研究論文」を発表し続けるほかの研究者とは、少し、自分は違うなと思っていました。ただ、一応言えば、実力がなくて書けないというのとは違うかなと思っています。実際、「研究論文」の体裁をとる文章は多少ありますし、その前段階にあたる「口頭発表」は日本語のみならず、フランス語や英語でも沢山行いました(その一部は自分では読めないブルガリア語に訳されたこともあります)。あるいは、「研究論文」の形式には収まりませんが、同等程度の価値を持つ「訳者解説」などを複数書いたこともあります。あるいは、これも「研究論文」の前段階にあたる「研究ノート」が一定の読者を得たこともあります。しかし、「研究論文」という大学人にとっての特権的なエクリチュールの形式にこだわることは、結局、なかったように思います。「研究論文」が書けなければ、それを纏めて「単著」を出すようなことも出来ません。理論上は。

ということで、ある種の「スランプ」のような状態にあったのは否定できないと思います。しかし、その間、何も書いていなかったわけでもないのです。すでに書いた通り、本を訳し、それに付す「訳者解説」などは人一倍こだわって書き上げたつもりですし、文芸誌の「評論」のコンペに応募したこともあります(「評論」と「研究論文」は似て非なるものです。これ自体、noteの主題のひとつになるかもしれませんが)。あるいは、まったく別に、「詩のようなもの」を書いたりもしています。元々は留学中に指導教員の勧めで「クリエイティヴ・ライティング」の授業に出て、音大の作曲科の学生と一緒に作品を作ったことから「創作」の道が開けたのですが、その後も、フランス語や英語も使いつつ、「詩のようなもの」を書いてはFacebookに上げたり、とある場所に投稿してみたりもしています(もっとも、鳴かず飛ばずですが。最近では、少し趣向を変え、「短歌」を読んで=詠んでみたりもしています。やはり、「定形」を知り「自由」に向かうのも悪くないのではないか、と思うのです)。あるいは、誰もが思うように「小説」を書きたいという思いもなくはなく、「私小説」のようなものを書いたこともありますし、最近では、あるフランスの詩人を紹介する際に、少し無理を言って、「自伝」の形式を採用したこともありました。ですので、「研究論文」以外のものは、というより、「研究論文」を含む色々なエクリチュールを実験的に試してきた、ということができるのかもしれません。

この機会に、自分史におけるエクリチュールの変遷をたどり直してみたい気持ちもなくはないのですが、それはまた別の機会に譲りたいと思います。要するに、色々書いてきたけれども、それではいま、書くことによって何ができるのか、ということを「試して」みたくなったのです。そこでふと頭に浮かんだ形式が「エセー=試文」というそれだったのです(ちなみに、「試文」という訳語は古井由吉さんへのオマージュです)。色々書いたけれど、「エセー=試文」は書いたことがなかったのではないか、と。

ですので、ひと言で言えば、わたしはここで、noteという場を使い、「エセー=試文」を書き連ねてみたいと思います。もちろん、誰も興味ないでしょう(苦笑)。何かに役立つものではないでしょう。しかし、私見では、「何かに役立つものではない」という性格は「エセー=試文」というエクリチュールのひとつの特徴でもあると思うのです。それは作者にとっての「試み」でしかないのです(一応書けば、エセーというのはフランス語で「試みるessayer」という動詞と繋がりを持ちます)。ということで、回りくどい言い方をすれば、「試みることを試みる」ということをしてみよう、ということになります。

「エセー=試文」を書き連ねるというのがここでの目的です。しかし、もうひとつだけ、条件を課すことにしました。それは、この「エセー=試文」を「売る」ということです。「何かに役立つものではない」ものを「売る」というのですから噴飯ものです。おそらく、家族以外は誰も買わないでしょう(苦笑)。でも、それでいいのです。というより、別に、詩や哲学を訳しても、それほどお金になるわけではないのです、今日は(苦笑)。ですので、これは「収益」の問題ではありません(もちろん、「小遣い稼ぎ」くらいになれば嬉しいですが)。問題なのは、むしろ、「態度」の問題です。「エセー=試文」を書くにあたり、「売る」という「態度」を採用したいのです。蕎麦屋が蕎麦を売るように、「エセー=試文」を売るのです。

なぜこれを明確にするかと言えば、それは、私見では、「研究論文」は「売る」ものではないからです(英語圏などでは若干あやしいですが…)。「研究論文」が得るのは「業績」であり、(さしあたりは)「お金」ではありません(もちろん、「業績」を積み重ねて「科研費」を得る、というエコノミーは明白なのですが…)。ですので、「お金」のためにものを書くのは、さしあたり、大学人の「態度」ではないのです。いま、わたしは大学から解放されました。一生このままかもしれませんし、ある一時期のことでしかないのかもしれません。それはわかりません。が、このチャンスを活かし、書いたものを「売る」という非大学人的な「態度」を採用してみようと思うのです。

…書きたいこと、ないしは、書くべきことはもっと沢山あるのですが、ちょっと疲れたので(笑)、今日はこのくらいにしたいと思います。「研究論文」と「エセー=試文」の二項対立を「脱構築」することもできるでしょう。でも、そういうことはとりあえずいいのです(笑)。とりあえずは上記の枠組みに則り、大学から解放されたこの機会を使い、非大学的な身振りを展開してみようということです。まあ、「実験」ですね。

さて、最後に一言だけ書いておきましょう。「エセー=試文」という表現について。古井さんへのオマージュはすでに書きましたが、もうひとり、名前を挙げたいと思います。松浦寿輝さんです。松浦さんはわたしが卒業した学科の専任教員でした。ですので、基本的には「松浦先生」です、わたしにとっては。とはいえ、指導教員だったわけではありません。しかし、色々な縁があって、何度か言葉を交わしたことはある関係です。で、そのことはまた改めて書くかもしれませんが、とりあえずここで言いたいのは、「エセー」という表現は、松浦さんの著作へのオマージュだと言うことです。具体的には、『青天有月』という書物の副題にこの表現が刻まれています。さらに言えば、この『青天有月』には続編があり、『黄昏客思』と題されています。すでにお気づきの通り、このnoteの題は「青天客思」と題されていました。ここに深い意味があると考える読者もいるかも知れません。が、しかし、別に「深い意味」はありません(笑)。オマージュと遊び心をあわせてこういう表現を作ってみました(ちなみに、俵万智さんのアドバイスで、異なるふたつの短歌の前半と後半をくっつけてみる、という手法があります。そうした作詩法とは結びついているかもしれません。「青天」の下で「客になる=主であることをやめる」。何かに発展しそうではありますが…)。

残念ながら、わたしは松浦さんのような美しい日本語は書けません(し、松浦文体でnoteというのも少し違うような気もします)。ですので、あんまり松浦さんは関係ありません(笑)。しかし、松浦さんが現代有数の「エセー=試文」の書き手であることは疑いないでしょう。もちろん、世の中には数多の「エセー」があります(芸能人の「エッセー」なども含め)。でも、もう少し文学的な意味で――という曖昧な言い方しかできないのですが――、「エセー=試文」があるのではないかと思うのです。先に書いた「試みる」という運動がその性質のひとつでしょうし、松浦さんに倣い、モンテーニュやバルトなど、フランスの伝統的な作家のエクリチュールを再訪するのも一興かもしれません。まあ、あまり学術的に考えるつもりはないのですが、でも、せっかく勉強したので、多少はフランス文学のことも書いてみようかなとは思います。

さて、「おち」はありません(笑)。笑いのセンスがないからですが、これは意図的な選択でもあって、「三部構成で序文と結論をつける」みたいな「大学的な書き方」(フランス語では「ディセルタシオン」と呼ばれたりもしますが)を避けているからでもあります。ふらっと書き始め、ふわっと終わる。極端に言えば、「推敲」もあまりしない。そんなスタイルで言ってみようと思います。でも、140字の「つぶやき」とは違うんです。一定の長さにはなると思います。そういうことをしてみたい。

ということで、今日はここまでにします。どうぞ、よろしくお願いいたします。

栗脇永翔

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