詩人は転生する

雪ですね。今日は久しぶりに、詩について、です。

英語の修業で忙しくしているうちに、松浦寿輝先生の『全詩集』が出てしまいました。やはり、「全」と印字されていますからね、重みがあります。1000ページの本ということで、覚悟をしていたんですが、手に取ると思いのほか軽い。詩、だからかもしれません。

全作品が年代順に並んでいると、やはり、感動的なものがあります。おそらく、レイアウトの仕方などもこだわって制作されているのかと思いますが、充実したスペースで一篇一篇印刷されており、ゆったり作品を愉しむことができる。松浦先生がお好きな、「ひもの栞」もちゃんとついています。

パラパラめくらせていただいて、すでに改めて、色々発見がありますね。そろそろ、一回、ちゃんと松浦寿輝論を、という感じもしないではありません。

それと同時に、『全詩集』が出たとなると、松浦先生の作品が「研究対象」としてみなされる日もいよいよ近づいてきたのかな、なんて気がしなくもないですね。これから文学部に進学するような学生さんに、是非、挑戦してほしいです。どなたか、わたしの生徒がやって下さったら嬉しいですけど(笑)。わたし自身が、なんで、変なポエムを書いているかという理由の一つが、この松浦寿輝にあるわけです(学科の先生だったんですよね)。

杞憂だったかな、という気もしますが、「仮講義」をやっていた頃は松浦先生の著作が忘却されつつあるような気がしていて、多少苛立っていたんですね。実際、学界などでもいわば「逆転現象」はあって、前世代のスターは一回忘却されるようなことがある。

ただですね、教育の方に移って、また少し違う見方もできるようになってきました。というのも、実は、松浦先生のテクストというのはそれなりの頻度で「現代文」の問題になっているのです!

例えば、2020年度、明治大学・全学部統一試験、代表的評論のひとつ『平面論』から出題されています。明治と言えば、志願者数が国内トップクラスの大学で、しかも地方受験などもある全学部統一の入試ですからね、潜在的にはかなりの若者が松浦先生のことばに触れていることになる。あるいは、国公立=記述問題対策で定評のある『上級現代文』(桐原書店)なんかでも、一篇随筆が使用されています。わたしも好きな『青天有月』からの抜粋ですが、こういう形でひとがセレクトしているのをみると、またちょっと新鮮だったりします。

わたし自身もですね、大学に入って学科に進学してから出会ったと思い込んでいたんですが、よく見直したら浪人時代、霜栄先生編纂のテキストに一篇入っていました(苦笑)。しかも、その後駒場のイタトマで感激することになる『官能の哲学』がすでに! いまみたいな「エビデンス」重視の時代、(ある意味では)自由に書かれた「エセー」に無心で向き合うことができるのは、案外、大学以前かもしれませんね。

なので、わたしなどが何かせずとも、ひとは日々、松浦寿輝のテクストに遭遇しているのかもしれません。研究や批評の世界では、どうしても論争的というか、政治的にみえてしまうような部分もあるんですが、テクストは常に世界に開かれている。中等教育というのもその回路の一つなのでしょう。入試に関しても、個々の作問についてあれこれ言われることが多いのですが、また少し別の視点でみても、日本の「受験」というシステムはなかなか面白い教育術=記憶術なんではないか、そんな気もしないではないですね。模試や学参などの「二次創作」も含めれば、日々もの凄い量のテクストが「転生」し、次の世代に読み直されているわけです。

先日、たまたま、フランスのフィリップ・ベックさんからもメールがあって、「2025年春に東京に行くかもしれないけど、何かやる?」なんて話も。それこそ、松浦先生なんかと引き合わせることができたら面白そうですけどね。「東京に松浦寿輝っていう詩人がいて、わたし自身のフランス語の先生で、フーコーやデリダの訳者でもあるんだ!」なんて話、よくしているんです。

まあ、わたし自身もまた、ちょっと頑張りたいなとは思ってます。英語の仕事が軌道に乗ってきて、生活は多少安定してきたんですけどね、特に受験期は詩どころではなくなりますね(苦笑)。一番の繁忙期が終わって、「Oを持たぬ」は久しぶりに、少し自分らしいものが出てきたきもしましたが。

Belle vie,
栗脇

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