松浦寿輝『明治の表象空間』より

「「時間」によって管理され、また翻って「時間」を能動的に管理することもできる自立的な経済主体の形成は、明治日本の国家事業であり、そのプログラム自体は、「一身独立して一国独立する事」(『学問のすゝめ』)と福沢諭吉が謳った「独立した個人」育成の「すゝめ」からさして隔たっているわけではない。ただ、人は物理的時間そのものから「独立」することは不可能であり、可能なのはただそれを自己の意図や欲望に適合する形態に組織し直し、主体的に管理することだけである。そして、たとえそれをしたところで、もう一段高い存在論的次元から見れば、この現世で人が以前として「時間の支配」に従属しているという事実に変わりはなく、従ってふだんは識閾下に抑圧していても或るとき不意に痙攣や苦悶や神経症が噴出し、人格の統合が脅かされる危険に「近代人」は絶えずさらされている。過去をめぐる後悔、未来に対する恐怖に襲われ、それが悪夢となってのしかかってくるのだ。
 そもそもの企図は効率的な経済主体を創ることなのに、そのプログラム自体が病を発症させ、それが主体を崩壊させるようなことがあってはむろん元も子もない。だから、たとえ仮初のものであれ救済の避難所を用意しておくことが、より大きな視野に立った場合には効率性の原理により適った措置だということになろう。〔…〕』

松浦寿輝『明治の表象空間』新潮社、2014年、441〜442ページ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?