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感動や勇気はもらうのでなく、自分で掴むものだ。

●風英堂文月記=感動や勇気は自分で掴むものだ。

真夏の7月も既に30日、風英堂も2日経ったら葉月記に代わっている。2年前の夏はジュネーブが見えるレマン湖畔にいた。
コロナ禍の五輪もメディアだけが盛り上がっている。コメンテーターも「感動をありがとう、勇気をもらいました」ばかりだ。感動や勇気は「貰うから直ぐに消えていく」が、自分で獲得すれば持続可能だ、ああ、これはサスティナブルというのかな。

テレビをつけると否応なしで五輪番組が飛び込んでくるが、他に魅力的な番組が無いもない。せめて結果だけでも見られるダイジェスト版を探しているが、何処が生中継かテレビ欄はよく分からないし、NHKは五輪一色だ。
五輪は時折視聴するが、下手な解説と絶叫アナウンスばかりでつまらない。情報番組は節操もなく選手の家族や生い立ちまで特集、だからメディアの手のひら返しと言われる。番組側が五輪のスポンサー企業グループなのだから当たり前のことだ。

未だに中止すべきと思っている所謂「反日人間」だが、スポーツを否定するものでは無い。「反対したら見るな」と言う現実無視の論点ずらしに付き合うことは無い。観るのは勝手だ。ネットニュースもつまらぬネタばかり、暇な半日人にとって行き場所がなくなっている。コロナ感染はいつの間にか高齢者から中年へと拡大、病床逼迫するも都知事も自宅療養とか言い出している。家のカミサマも8月半ばから膝の手術も病院延期された。

ところで、ワクチン供給はどうなっているのか。ワクチンの接種遅れが感染爆発につながり、若い世代への対応策が急がれている。救急体制もそうだが、発表される3000人の感染者の後ろには1万人の自宅療養者や入院などの調整中の人たちがいるということを認識しなければならない。さらに、味覚や臭覚への後遺症が出始めている。

さらに「人流は減っている」と言う奇妙なロジックを使い、「自己責任」というパスとスルーで、日本の「無責任、無政府状態」が際立ってきた。数週間後に「安全・安心な大会」が実現できなかったことが分かった場合、何と言って言い訳するだろうか。「個人的には開催反対であったのだが、とても反対できる空気ではなかった。一度決まったことには反対であれ、従うのが日本人だ」と言うのではないか。

中国人ジャーナリストの莫 邦富氏はダイヤモンドオンラインで「中国人が寂しく感じた五輪開会式、過去の栄光に縛られた日本の黄昏」を書いている。
❖<夕陽無限好、只是近黄昏>とは唐の李商隠の詩である。夕日は素晴らしいけれども、黄昏に近い、最盛期が過ぎたという意味だ。東京タワーの美は中国語で言えば「陽剛」の類に入る。スカイツリーは「陰柔」の美を見せる。前者は力強い気概・風格、野性味にあふれた精悍さを表現するときによく使われる。後者は繊細な美しさを表す際に用いられることが多い。成熟した美を見せてくれているスカイツリーには、哀愁が漂っている気がする。❖

哀愁漂うスカイツリーを見つめながら慨嘆する。異例な状況下であってもスポーツの祭典=五輪が進んでいる。五輪関係者は言葉を濁すが、この国際イベントが美しい理念や建前をよそに「スポーツを介した戦争」になっている。主催がIOCなのか、東京都、日本政府かは分からない無責任体制、メダリストには報奨金などが出ているが、税金もコロナ禍も五輪も煽れば煽るほど、メディアは儲かるのだ。

五輪憲章で「国家間のメダル競争」を禁じているにもかかわらず、日本のような一部の国はメダル獲得数をランキング形式で並べて「今、日本が世界一だ!」と浮かれる。各国がメダリストたちを「国家の英雄」として扱い、国威発揚やナショナリズム強化のシンボルとして政治利用している。この構図は、「戦争」以外の何ものでもない。

そして「忘却の彼方に」はどうにも止まらない。不正行為は隠蔽、証拠文書は改ざん、虚偽答弁は当たり前、データも有ること無い事を捏造し、忖度が横行する。忖度しない公務員は追放、メディアの報道機関は恫喝し、検察や警察など捜査機関は手なずけて、追及されても答えないか、はぐらかす。後は国民が忘れるのを待つ。そこに一部であろうが、日本人の無知・無魂・無涙が存在する。

人間の傲慢さによる玉砕的な五輪玉が爆発しそうだ。「たかがウイルス、されどウイルス」、見くびってはいけない、そしてワクチンに頼る人間の儚さが見えてきた。そんな時は身体を整えるための呼気を意識する。呼吸が出来ればお腹も立ち、肩甲骨と胸を張れば胸襟を開けるだろう。俘虜にならずに、不慮の出来事を避け、不良老年の黄昏を明るく照らして行こうかなと。


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