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三年間が時速300㌔で過ぎ去って行きます

共通テストを終えて2次試験まで勉強して気づいたことがあったので、新幹線の中でメモとして残しておこうと思います。主に日本史に関しての話です。主観的な個人の感想が中心なので、違和感のあることもあるかもしれません。

中学校の日本史の先生が最初の授業で仰ったことが、今でも心に残っています。

点の学習、線の学習、面の学習

日本史学習のステップを示すものです。すなわち、第1段階は「点」小学校の社会です。織田信長とか徳川家康とかの人物の存在を知ること。次に「線」中等教育の段階ではそれらの点の相互の繋がりを学ぶ、そして「面」線と線の間を網羅的に理解することができる。詳細についてはうろ覚えですが大体こんなことだったと記憶しています。

さて、今まさに私が経験している大学入試はその第2のステップの最終段階に当たるものでした。私が受験した国立大学は2次試験である程度長い論述問題が課されるので、それに向けて勉強しました。論述問題では単なる語句の暗記ではなく、事象について設問の要求に沿って簡潔にまとめたり教科書の記述を再構成する必要があります。

その中で初めて気づいたのが、先に述べた、歴史的事象同士の関係です。そして私は日本史が得意だと自負しながらも、どこか単純な語句暗記に終始してしまっていたのだということです。

思えば私は定期テストの度に知識を詰めるように自分でルーズリーフにまとめノートを作ってはいましたが、殆ど教科書を読んでいませんでした。表や箇条書きでは個々の単語は頭に入りますが、繋がりを表現するのは難しかったと反省しています。

論述ではたまに不可解な指定語句を含む問題がありますが、これは解く側、つまり私の知識量が足りないか、知っていても他の事象との関係性を認識していないということです。

日本史に限らず、社会は暗記科目だと思っている人がいます。私もそうだった時期がありましたが、今は違います。社会が暗記科目だと感じられるのはその人が暗記以上のことをしようとしていないだけです。

例えば、今あなたの目の前に高い山脈が横たわっているとしましょう。あなたは、立ちはだかる山しか見えず不安の中山を登り続けるしかありません。中腹に差し掛かると、さっきまで自分がいた麓の景色が見えるようになります。もっと登り続けたあなたは山頂にたどり着きます。すると360度、今までは見えなかった山の向こうの景色も見渡せるようになるのです。

つまり社会が暗記科目なのは三合目辺りまで、点の学習までなのではないでしょうか。

受験勉強という過程もまた、先述の山の例えのようなものだと感じています。何も分からず右往左往していた入学直後、毎日予習をこなした一年生の頃。戸惑いながらも一歩一歩踏みしめてきたものだけが辿り着ける境地が存在するのだと思います。

前期試験を終えて、果たして今私はそこに達することができたのでしょうか。大分まとまりのない文章になってしまった気がしますが、このあたりで失礼します。