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雪だるま
ある朝、目を覚まし窓の外を見ると一面の銀世界であった。この街にも10cmほどの雪が積もったのだ。滅多にないことだとアナウンサーが言った。
雪の降らない土地で育った者にありがちなことだが嬉しくて外に出て、近くの神社まで歩いていった。こんなに寒いのにわざわざ散歩する物好きに何人かすれ違った。スウェット上下でランニングしていた大学生は今日くらい休んでもいいんじゃないかな。白いふかふかの道路を踏みしめるとキュッキュとなって気持ちいい。黒く刻まれた轍は凍っている。何度か滑って転びかけながら家に帰り、2分遅れてオンライン授業を受けた。
スニーカーがびしょびしょになってしまったこともあって、午後はただの1歩も家から出ず窓から外を眺め、SNSでみんながどう過ごしているのか見ていた。大学も同じくらいの雪が積もったようだった。家でも授業を受けられる時代なのにわざわざ登校してきただけあって、彼らはこの雪で遊びつくそうとしているらしい。雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりして楽しんでいた。こんな様子を見ると、ああ登校すれば良かったなあと思ってしまうのでいけない。
でも仮に学校に行ったとしても、わたしは雪だるまを作りはしなかっただろう。
明くる日、学校に行った。日中の暖かさで雪はすっかり解け、銀世界の面影は感じられない。そんな中、木製のベンチの上に、そこだけ妙に雪が残っている場所があった。昨日雪だるまだったそれは今やベンチにしみこもうとしていた。
雪だるまを作ることは雪に命を与えることだ、と思っている。ただの雪を丸めてだるまに見立てた瞬間に愛着が湧いてしまうのは、わたしだけではないはずだ。でも雪だるまはいずれ解けて消えてしまう。わたしは雪だるまが消えてしまうのが怖いのだと思う。だからわたしは雪だるまを作れない。
失うことはこわいことだ。
先日親戚が亡くなった。わたしも急遽地元に帰り、葬式に参列するなどした。そこでは故人の昔の写真も置いてあって、ふと気づいたことがある。故人は高齢だったから、10代のわたしが知っているのはその人生のほんのわずかな一部にしかすぎないということだ。周りの大人は目を赤くしていた。
近い将来、もっと濃密な関係を長い期間ともに過ごした人々が亡くなるときが来る。その時わたしは何を思うのだろう。