自分という人物

1994年に私は誕生しました。

目が細く、天パーで不器用でいじめられっ子でした。だからなのかもしれませんが、人の痛みがわかる様な人間になっていました。いじめって怖いですね。いじられるといじめられるって一線があるようでない気がします。馬鹿にされて心底いらいらきてたのも事実です。お前は仲間だと言われようが信じることはありません。

高校時代には・・・と言いたいところですが、一番ひどかったのはこの時代だと思います。だからこそ人を信じがたいのだと思います。最近、そのグループLineから外されていました。まあそこまでの仲だったと思えばそれまでだったのかなと。思い出を美化しすぎて嫌な思い出を遮っていたのでしょうけど、やられたことを思い起こさせることの大きさが目立っていたので、むしろうれしかったです。もうこの人たちと話すことはなくなるというのは大変こちら側の立場からすると嬉しさしかなかったのも事実なのかもしれません。そこまでの縁だったんだって、我慢する必要性もなくなった訳ですから。後輩たちに対しては全然何ですけどね。高校の同期に対してだけは気が許せなかった、一部の人間のせいでここまでも引きずってきたわけですから気のいい人もいたんですけどね。まあぶっ飛んでる人が多かった。都合のいい人間だった訳ですよ。

人の良い悪いって何ですかね。

その影響もあるのか、人に優しくというのが身に染みて今の自分が形成されています。むしろ人の痛みがわからない人間が社会に出ている。厳しさを知らないまま、出て行く訳ですからこんなやつが何をしているんだとずっと思っている訳ですよ。何を偉そうにと自分でも思ってますよ。でも、人の痛みがわからないくせに社会人になるというのが理解できなくて。人の痛みがわかって自分が形成されていると言った形になるんですかね。脱線が多すぎて何が言いたいのかわかりませんし、被害者ぶっとるやないかって思います。もちろんそうです。被害者です。勝手にSNSログインされて違反扱いをされたり、勝手に名前を使われあげく大学名まで晒される始末。訴えたら勝つような内容ばかりです。でも何も言ったこともないですし、むしろやった側の人間は「ごめん」で許されると思っているはずです。だからこそ、縁を切りたかったんです。

とまあここまで言っといてあれですが、自分を形成出来るのは自分自身の経験に過ぎないと言っておきます。人の痛みがわかる人間こそが自分を制するのかなと思っています。余計な一言を付けるのは直した方が良いのかもしれませんが、人のことを思って言ってしまうのかなって思っています。まあ直さなければいけないところではありますが。

何も出来ない人間だけど、人情だけは誰にも負けたくないこれが自分のモットーなんだと思います。

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