大調和の世界とはどんなもの?


いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。

この記事は昨年の3月にアップした記事です。

僕の根本にある考え方なので紹介します。

聖徳太子の示した十七条の憲法の第一條に、最も有名な言葉があります。

「和をもって貴しと為す」

この言葉の本来の意味は、大調和の世界を目指したものです。しかし現代では「みんな仲良く」という浅い意味でしか捉えられていないように感じます。





「大調和の世界」と何気なく書きましたが、この言葉を、ある方に教えていただいてから気に入って使っています。その方は広島市にお住まいの、国語ワークスの松田雄一先生です。松田先生は、日本の歴史に精通し、国語に関する事業を行っていることもあって様々な学びをいただいています。

松田先生の講座を受講して学んだことですが、大調和の世界とは則ち、八絋為宇(はっこういう)あるいは八絋一宇(はっこういちう)という言葉に集約されます。これは初代天皇陛下であられる神武天皇の「即位建国の詔(そくいけんこくのみことのり)」に記されている言葉です。

この言葉を意訳をすると「大きな大きな屋根の下で、国民全てが住まう様子」を表しています。つまり、天皇陛下の庇護の下に、日本国民が家族のように暮らすことを説いた、国家理念です。

日本では国の肇(はじ)まりからすでに、天皇中心の国家であることが分かります。そしてそれは第33代天皇推古天皇の摂政であった聖徳太子が示された、十七条の憲法の第一條にもしっかりと引き継がれています。

「和をもって貴しと為す」とは、八絋一宇の理念に通じているのです。


ちなみに松田先生からのお話によると、この十七条の憲法は、法律や刑罰が示されたのではなく「心得を説いたもの」だとのことです。普通なら制度や刑罰を先に整備するのですが、それが整備されるのは数十年後の「大宝律令」です。十七条の憲法は、法律ではないのですね。

また、松田先生がこのことを分かりやすく以下のように説明してくださいました。

「今の日本もそうですが、制度や仕組みを整備することが重視されて「人間性」という部分が軽くなっているかもしれないです。ただ、制度や仕組みがあっても人の心がきちんとしていないと社会が成立しないのも普遍的なことだと思います。

明治になってそれを体系的に説明したのが『學問ノスゝメ』だと自分は思っています。

日本は「大宅」なので、仲良くしよう、最終的に調和を目指そう…というのは分かるのです。ただ、家族内でのルールはありますよね。大宅だからこそ、寿司に唾液をつけるルール違反は、他の家族のためにも罰してもらわないと困ります。」


これは僕が質問したことへの回答という形でメッセージをくださったものです。僕は、スシロー事件の加害者に対して寛容でいることが是なのかどうかを問いました。すると松田先生からは上記のような返信をいただいたのです。

僕は非常に納得しました。日本人は皆、大きな屋根の下で家族のように暮らす。けれどその家族の中にもしっかりときまりや約束事がありますよね。それに対する逸脱行為は、たとえ家族であっても許されないのです。


僕には、大調和の世界に最も必要だと考えているものがあります。それは

「秩序」

です。秩序なきところに大調和は生まれません。

この秩序についてこれから詳しく書いていこうと思うのですが、先にお伝えしておくと、「みんな仲良く」という多くの日本人が口にするこの言葉は、秩序を保つために必要だと僕は考えていません。初めに申し上げたように、この言葉を軽々しく使ってはいけないとも思います。では、なぜそう考えるのかを記していきます。

秩序を考えるに当たって、今回はもう一人の方にご登場いただきます。

僕が以前より交友している、尊敬して止まない高見澤秀男さんです。

https://ameblo.jp/h-kammy2015/entry-12740992515.html←以前秀男さんの記事を記しました。

秀男さんは、インターナショナルスクールのカウンセラーであり、児童文学作家でもいらっしゃいます。ご著書の『地獄の登校日』は名作です。こちらの本がきっかけとなり交流させていただいています。

また、秀男さんとはアドラー心理学でも繋がりがあります。以下、アドラー心理学に基づくお話も出てくるので、頭の片隅に置いてお読みください。

僕が考える秩序とは「みんなが互いを尊重し合い、協力し合い、認め合う社会を構築すること」です。最も大切なことは、それぞれの自由や権利を尊重し合うことだと考えます。

ヘーゲルの唱えた「自由の相互承認の原理」がベースの相互承認、相互尊重を基にするべきです。

例えば僕は、学校の休み時間は子供たちの自由にさせるべきだと考えています。休み時間は子供たち一人ひとりの時間です。その時間を奪ってしまうのは、自由を制限することと同じだからです。


なぜ半強制的に外に出さなければならないのか、なぜ半強制的に委員会活動をさせなければならないのか。僕にはまだこの答えは出ていませんが、いつも心苦しく感じていることの1つです。

子供たちは、自由を与えられればそれを大切にします。義務でやらなければならないこともありますが、自由が与えられていればそれを実行する責任感ももっています。


一方で、自由の権利ばかりを主張して、責任をもたない子供もいます。この無責任な子供は、他者の自由を侵害することが多くあります。そしてその侵害行為に対してほとんどが無自覚です。秩序が乱れるのです。

僕が考える秩序とは、みんなが自由でいる、その上で互いの自由を侵害し合わないものを指します。大調和の世界のベースはここにあります。

ここから秀男さんの言葉を拝借していきます。

「義勇さんのおっしゃる大調和の世界、僕も大賛成です。正にアドラー心理学に通じていますね。

『ただみんなと仲良くしましょうね、ではなく、意見や考え方の違う人がいてもいいし、仲良くする必要もない。ただ、共同体に対して建設的な形を目指していきましょう』

義勇さんの様に、その考えを探究し、深掘りをしてきたわけではありませんが、僕もこの考えで生きていると言っても許されるのではと、自分では思っています。

以前お話したかもしれませんが、僕は社会をオーケストラや音楽に例えて考えています。

色々な楽器が、違う音を奏で、重なったり、単独で音を出しながら、全体的として調和のとれた音楽を成す。違いが融合する前に、それぞれの奏者は何より自分の楽器が大好き。

更には、オーケストラにしろ、バンドにしろ、異なるジャンルがあり、みんながどんな音楽も好きである必要はない。

実際、僕は個人的に演歌やラップが好きではない。しかし、好きではないが、否定はしない。演歌を聴いて幸せなお年寄りを見れば、「良かったね」と思える。

一方、違う音楽からの学びも多々あり、ロックがクラシックからその要素を取り入れて大ヒットになった例などに見られる、異種の融合による新たな世界の創造なども忘れてはならない。

楽器も歌も一人で成り立たせる事もできるが、ビートルズの音楽もポール一人、ジョン一人では成り立たなかった。

自分の愛する楽器が奏でる音が好き。誰かと一緒に演奏するなら、それも好き。自分らしい音でグループに貢献できるなら、それもたのしい。

そう思える人達が集まって奏でる音楽が流れているなら、それだけでその場所は素晴らしい共同体の場ではないでしょうか。

その楽しさ、大切さを身をもって子供達に教えるのが、親、教師、カウンセラー、そして大人全体のミッションだと思うのです。

義勇さんの理想を是非世界に広げてほしいです。僕も、僕の立場でできることをして伝えていきたいです。」



秀男さんのこの言葉から、今回の記事を思いついたと言っても過言ではありません。そして僕が今回お伝えしたいことが全て集約されています。


音楽の例えでもされていますが、みんなが同じ楽器を楽しむ必要はありません。好きな楽器はそれぞれでよいのです。

ギターが好き、ピアノが好き、ドラムが好き、サックスが好き、ハープが好き。みんな別々のものが大好きなんです。ギターが好きな人がドラム好きをバカにする必要もないし、ドラム好きな人がカスタネットを蔑む必要もない。それぞれが好きなものを極めていけばよいだけです。

ここに相互尊重・相互承認があります。


でも、みんなで合奏しようとなった場合には、みんなに合わせる必要が出てきます。ギターだけ、ピアノだけが目立ってよいわけでもなく、自分の好きなスピードで奏でてよいわけでもありません。ここに必要なのが秩序です。


「共同体に対しては常に建設的であるべきである」というのが僕の根底にあります。自分の好きなことを自由にやってもよいけれど、そこに他者がいるならば、その社会に適応するように行動することも必要だということです。

楽器は一人で奏でることができます。けれどより高度で素晴らしい音楽を奏でるためには、たくさんの人の力を結集させなければなりません。


その為には、個々の力を高めることが大切です。自由を保障されながら個人の能力を高める。それを共同体に建設的に還元していく。その営みが、大調和の世界へと繋がっていくのだと僕は考えます。


他者のことを批判する必要もないし、自分を卑下する必要もありません。みんなで力を合わせる段階でトラブルが起こることもあると思います。それ自体は全く問題ではなく、むしろ自然なことです。ただそのトラブルに対して、非建設的な行動をとっていくのは明らかに秩序に反する行為です。


僕がスシロー事件で加害者に感じたものは、社会からの逸脱行為だということです。自分から大きな屋根を出て行こうとするならば、それは屋根の庇護には預からないと考えます。犯罪行為は、非建設的行為の最たるものです。しっかりと罰せられるべきです。それが秩序を保つために必要なことです。


アルフレッド・アドラーは、「共同体感覚」というものを人間の究極目標として掲げました。僕はこれが「八絋一宇」の国家理念と相通ずるものだと考えます。アドラー先生が日本の国家理念をご存知だったかどうかは分かりませんが、1つだけ確かなことは、「大切なことはどこの時代、どこの世界においても変わらない」ということです。


八絋一宇の理念は、人間の本質の1つではないでしょうか。


一人ひとりが自由を謳歌し、自分の能力を高める。そしてその力をもって共同体に対して貢献していく。その営み全てが大調和の世界を創っていくのだと僕は考えます。


別に人の好き嫌いがあってもよいし、みんなが仲良くする必要もない。ただ相手の存在や努力を尊重し、認め合い、協力し合えれば、この世界はもっと豊かで幸せなものになるでしょう。


みんなが本気で大調和の世界を目指す。それこそが平和への道なのだと僕は思うのです。


長くなりました。ここで終わります。最後までお読みくださりありがとうございました。

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