言葉は後から付いてくる
いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。
僕を含めて、教員は綺麗な言葉を使いたがります。名言や格言などをもってきて、子供たちに本質を伝えようとします。
それ自体は間違っていないのですが、時としてそれが実感の伴わない言葉になることがあります。そしてある意味害毒にもなります。
今日は、言葉は後から付いてきた方が、本質に迫れるのではないかということを述べていきます。納得していただけたら幸いです。
5月下旬、うちの学校でも運動会が実施されました。運動会には大抵の場合スローガンなるものが作られるわけですが、どうも僕はこれを好きになれません。
「全力で頑張ろう」や「絆を深めよう」や「感動させよう」などといった文言が並ぶわけですが、ほとんどの場合これが意識されることがないからです。
スローガンを掲げたところで、それをどれだけフィードバックに活かすことがあるでしょうか?僕は学級目標も同じ理由からここ10年くらい作っていません。自分の中で意味をもたせることができないからです。
なぜ学校では「絆」「団結」「協力」「友情」「努力」などの言葉を使いたがるのでしょう。それを使用する人が悦に浸るための道具に成り下がっているように思えてなりません。言葉の本質に迫るためには、道具として利用するのではなく、実感を伴わせなければなりません。
先日、同僚からお嬢さんの高校の体育祭の様子を聞いた時に、これだ!と思ったことがあったのでシェアします。
その高校は教育目標に、生徒の「自主自律」を掲げています。体育祭も生徒自身が企画運営する方式をとっていたそうです。
これは生徒による実質の企画運営で、教師の影はほとんど見えない状態です。
1年生から3年生を1つの縦割り団として構成し、7つの団で競技やダンス等で競い合う方式です。リーダーや副リーダーは3年生。指示は全て3年生が出します。
どんな競技を行うのか、どの順序でプログラムを組むのか、初めの言葉や終わりの言葉を誰が担当するのか、そういった体育祭全体のことも実行委員が決めます。
そこにはきっと多くの悩みや失敗が引き起こされると思います。けれどそれを乗り越えながら、みんなで体育祭を作り上げていくというのです。
自主自律を掲げる高校は多くあると思いますが、それが実質の伴わないハリボテの目標であることが大半ではないでしょうか。しかしその高校では実際、生徒の自主自律を目指して、生徒自身にほぼ全てを委ねています。
「主体的に行動する」という言葉がありますが、そのためには責任も含めて相手に全てを委ねなければなりません。そうすることで、責任を自覚し、覚悟を決め、行動するしかなくなるわけです。
このようにして作り上げられた体育祭は、同僚曰く「圧巻」だったそうです。生徒自身による運営。主体的に関わるからとにかくエネルギー量が高い。みんなで作ろうとするから協力体制も生まれるし、互いに叱咤激励し合いながら困難を乗り切ります。
時に音楽が流れなかったり、競技の審判でミスしたりすることもありましたが、みんなでそれをフォローする。そういった姿も見られたそうです。
体育祭の終わりの挨拶で、実行委員の代表の子が感極まって泣いてしまったそうです。そこでは団の解散式に校歌をみんなで歌うことが伝統だそうですが、泣きながら大声で歌う高校生の姿を見たと言います。
校長先生の挨拶もありましたが、この校長もまた良かったと同僚は絶賛していました。淡々と事実だけを述べて、特に褒めることも感傷に浸ることもないスピーチです。ところが途中ぐっと言葉に詰まる場面があったそうです。普段淡々としている人だけに、そのシーンでは同僚ももらい泣きしてしまったとのことでした。
その体育祭で、どんなスローガンが掲げられていたのかは知りません。でも仮に「絆」「協力」「団結」等の言葉が掲げられていたとしたら、正にこれらのものが表出したものであったと考えられます。
「言葉は、行動に裏打ちされて初めてその力を発揮する」のではないでしょうか。
初めに言葉があるのではなく、行動を振り返った時に初めてそこに言葉が乗っかっていくのだと思うのです。
上っ面の言葉というのは、すぐに分かりませんか?そこに実質が伴っているかどうかは、その言葉を発する人の行動によって伝わり方が変わります。
「君のことを愛している」などとドラマで使われるような臭いセリフを言う人がいたとします。けれどもしその人が、相手の誕生日を忘れていたり、デートよりも飲み会の方を優先したり、他の異性を口説いていたりしたら、どんなに言葉を尽くしたとしても伝わりませんよね。
それよりも、相手が体調不良で寝込んでいる時に看病したり、困っているところにさっと助けに入ったり、その人が欲しい物をサプライズで用意していたりする方が、言葉を尽くすよりも遥かに愛情として伝えることができます。
後者は、言葉を後付けするだけでよいのです。君を愛してるなんてわざわざ言わなくても、愛されていることを実感します。そこで初めて「君を愛しているんだ」という言葉を使えば、それが重みをもって相手に伝えることができるわけです。
僕が今回最も伝えたいことは、「言葉を上っ面で使うなよ。そうするとその言葉の意味が陳腐なものになるからね。」ということです。
SNSを見ていると、偉人の言葉ばかりを引用してツイートする人を見かけます。僕は基本的にそういう人のフォローを外すようにしていますが、どこか悦に浸ったような投稿には辟易します。
それよりも、その人の内側から出てきた実際の言葉にこそ真実があると思うのです。心の底から出てきたような言葉には、力が宿ります。それこそが僕の胸を打つのです。
僕は教員です。言葉を駆使しながら子供たちに教育活動をしています。ここで僕が最も心掛けていることは、実感の伴わない言葉を使わないということです。
子供たちも本能的に大人の欺瞞を見破ります。子供たちの前では嘘が通用しないと僕は感じています。だから常に、自分と他者に対して素直でいることを心掛けているのです。
「教師なのだから、こうあらねばならない」と教師然としていた10年くらい前までの僕は、上っ面の言葉を子供たちに伝えていました。しかしそこから少しずつ自分を変化させていって、今ではだいぶ自然に出てくる言葉を使うことができるようになりました。
この自然体の自分でいる方が、教師然としているより遥かに子供たちからの信頼を勝ち得ている実感をもてています。
僕が語る言葉には、今は実感が込められているものばかりです。だから伝わります。
結論としてお伝えしたいことは、「大切なのは行動を伴った過程である。それによって結果的に言葉に力を宿らせることができる。言葉は後から付いてくるのだ。」ということです。
自分の奥底から編み出した言葉を使っていきましょう。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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