じんのひろあき作 短編一人芝居『我々もまた世界の中心』とは?

 この『我々もまた世界の中心』というのは、連係一人芝居です。
 短い一人芝居が延々繋がっているいるものです。
 基本、舞台に装置はいりません。
 役者がいて話によって何かしらの小道具が必要にはなりますが、使うのはその程度の物です。
 Aという人の一人芝居があって、当然舞台にはAという人しか出てないわけですけど、その人がBという人と話している芝居をします。
 すると、次の一人芝居は、そのBという人が出てきて、芝居が進行していくわけです。
 Aという人がBという人と話をしていてCについて話をしたら、今度はCが出て来る芝居、もしくは、Cにまつわる芝居になるわけです。
 これを何度かくり返して上演し、話を組みかえたり、新作を追加したりとか、いろいろやったわけです。
 2時間で8本やって、それを3本作って、1時、4時、7時で三部作一挙上演とかもやりました。
 それで最終的に計、36本まで来たんですね。
 これは『欲望だけが愛を殺す』というタイトルで、映像化もされてまして、この映像化というのはWOWWOWで、JMOVIEWARSの第1期に4本が映像化され、後にオリジナルビデオで、ビデオ3巻で、16本入っているものを作りました。
 これはさっき言った通り、話は全部つながっている一人芝居の短編なんです。
 なぜ話がつながっていなければならないのかというと、一人芝居のバラバラのものを、たとえば2時間で6本なり、8本なり見せられた時に、毎回、登場人物も、話も、ひょっとしたら芝居のスタイルまでちがっていたとしたら、6本目がはじまる時、7本目がはじまる時、毎回思考をリセットしなければならないんですね。
 頭を一回真っ白にして、上演されている芝居を受け入れる態勢を作らねばならないんですね。これが、オムニバスの演劇、まあ、一人芝居に限りませんけど、ストレスになるんです。
 できれば、1本見て、2本目見て、3本目見て……となっていくにしたがって、次第にその見ていた事を蓄積として残したいんですよ、観客の中に。それで、全部つながっている、見て行けば行くほど、世界が広がるという事を考えていたんです。
 でないと、オムニバスの欠点である、思考のリセットを観客にくり返し強要する事になりますから。
 それは、嫌だったんです。で、そういう連作短編という発想はまあ、私の中にはもうずいぶん前からあったわけですが、1991年の夏から書き始めたものをこのたびまとめてnoteにアップしました。
 ワークショップ、無料の公演などで使っていただいてかまいませんが、有料公演の場合、上演料が発生します。
 規模により価格は変動いたしますので、ご連絡いただければと思います。

 じんのひろあき拝

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