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幼稚園おすなば物欲考

拙稿『己への浪費許容ハードルがメチャ高い』において触れていた、私の「己の物欲の認知」の始まりである幼稚園のお砂場における後悔、という原風景について書こうと思う。

 幼稚園児であった当時、私は松山市のトイザらスにおいて両親より「好きなものを買ってあげる」という恐るべき通達を受けた。
 前提として、我が家は常に子供が欲したものを願い通り手に入れられるといった環境の家庭ではない。誕生日やクリスマスにお願いすれば買ってもらえるかもね…といったところか。

雨月衣先生のエッセイコミック『TALKING LIP』(名作です)で「家に帰ったら欲しいおもちゃが買ってあるのでは」となぜか勝手に期待しワクワクしながら帰っては落胆していたエピソードがあるが、私ももれなくこのタイプの小童であった。


そんな子供に「好きなものを買ってあげる」という一報がどれほど革命的なことか…。


 私はあるおもちゃに目を付けた。「シンデレラドレスセット」である。
サテン地でできたドレス、銀色のメッキと青い宝石がまぶしいティアラとイヤリング、手袋がパッケージされたものだ。私は“妙に”それが欲しいような気がした。

“妙に”というのは、ディズニーのシンデレラ自体見たこともなく、私自身が短い人生ながら今までそんなものを欲しいと思ったことがなかったためだ。当時から私はかわいいもの、いわゆる女の子らしいものを避けて暮らしており、スカートやピンク色などをなるべく着用したくないと断固親に訴えていたのだった。その私がなぜ、シンデレラのドレスセットを……。

 今思えば、魔が差したとか、なんとなくとか、そう言うしかないのだが…。よくよく振り返ってみれば、両親の前で「シンデレラドレスセットを欲しがる子供」に「なってみたかった」というのが正しいのかもしれない。

私はそのままするすると「シンデレラドレスセットを欲しがる子供」から「シンデレラドレスセットを手に入れた子供」になれてしまった。帰路、車の中で青色のパッケージを見つめた記憶が残っている。

 帰宅した私は、さっそくドレスセットを着用することとなった。親としても子にドレスセットを買い与えたとなれば着ているところを見たいのが当然であろう。
まぶしく輝く、心躍るようなドレス…それらをすべて着用した私は、愕然とした。

似合っていないのである!

大人からしたら子供がドレスのパチモン着てたらなんだって可愛いのだろうが……幼稚園児の私にとって、鏡に映っているのは似合ってない衣服を着用した醜い己の姿でしかない。 
私は深い絶望と後悔、羞恥を抱え、粛々とドレスを脱いだ。箱に突っ込んだ。親の手前、こんなものやっぱりいらなかったとは言えなかった。どうして……どうしてドレスが欲しいと思ってしまったのだろう……。

翌日幼稚園へ登園した私は、お昼休みにマメツゲの生い茂るお砂場で一人深く反省したのだった。

私は今まで、欲しいと思ったものを買ってもらったりしてきたが、それら全てを買ってもらったときのまま大好きではない(情熱は薄れるものだということ)。それどころか、ドレスはどうだ?「欲しいかも?」というぼんやりとした希望で買ってもらったあげく、嬉しいという気持ちすら湧かないだなんてことがあるだろうか。
「本当に欲しい」ものなんて、無いのだ…………。

ということを、本気で一人考えていた。
これが幼稚園のお砂場における物欲の後悔、という原風景である。


しかし、思い返せばこれは物欲というよりも、「漠然とした理想像」に自身も属することができるのではないか?という期待と失敗の話にも思える。
私はドレスに憧れを抱き、似合う少女になりたかった。

そして己がそうではないということもおそらくわかっていたのである。

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