見出し画像

脳が思考の停止を始めたら

こんにちは。なんだか久々の記事(日和とフィーカを書く前の文章です)になってしまいましたね。
今回はただただ思考を垂れ流すための文章でまとまったものではありません。

ずっと停滞していた状態から年明けと共に一気に色々と始めて、程よい良いストレス感で進行していたのですが、ある拍子に急に過負荷に傾いてしまい、ダウンしてしまいました。ちょっと動ける状態ではなかったので、まあしょうがないかとペース配分を考えながら、体力を蓄えていました。そんな時に考えていたことについてです。

気が向いたら読んでみてください

普段は薬局薬剤師として生活をしていて業務と勉強で研鑽を続けていく日々。それなりにやりがいもあり、自分にできることはどんなことだろうと考えるのはとても楽しい。しかし薬局という性質上なかなか自分発信をする機会というものは少なく、音楽がどれだけ自分を媒介にして発信しやすいものであるかというのを再認識させられる。
と、思ってしまっている自分に気づいた。僕は待ってしまっている。機会が来てくれると思ってしまっている。何かと何かを分断して考える癖があるのは良いところでもあり圧倒的に悪いとことだ。結びつけられる場面はないか、活かせる場面はないか。実は、自分を助けるためのヒントは実は自分が抱えている場合というのが多い。活用できるように、別の角度からそれを再認識させられていないだけだ。それを一般的には視野が狭いというのだろう。
昔は日銭を稼ぎながら音楽だけをしていた。今はがっつりと薬剤師をしながら音楽をしている。環境やら年齢やらにおいてその違いは確かにあるが、本質的な違いは実はないのだ。違いがあるからできないというのはなんともわかりやすい言い訳なのである。

人はみな生活をしていて多少な差異はあれども日々は繰り返していく。当たり前と言われる日常だ。かつて出会った人が毎日を陸上のトラックのような物だと言っていた。人は何周も何周も同じトラックを走っている。歩いていたり走っていたりペースは人それぞれである。走り慣れた道だから先に走り始めた人は走るのが上手い。多少のでこぼこした道であっても力強く進んでいける。ちょっと寄り道したところに気になるものがあれば寄り道してそれを手に取る。そうしてたくさんのものを積み重ねながら道を固め、経験としていく。走り始めた人だって同じことだ。走り続けているうちに自覚せずとも地は徐々に固まっていく。
要するにあらゆる経験値はそれぞれの分野ごとに分散されるのではなく自分自身に積まれていく。よく考えなくても当たり前であって、当たり前が故に逆に気付きにくい事実なのかもしれない。

そんな感じで生きるのことや音楽性のことを毎日誰かと語り合っていたのはもう10年以上も昔のことだ。今ではそういう相手がいなくなってしまった。文脈からわかると思うがこれを否定する。これは相手がいなくなったのではなくて、誰かと深く真剣に語り合わなくなってしまっているというだけのことだ。

そう考えてしまう要素ももちろんある。思慮しなければならないことも増えたということもあり、余計なことが頭をちらついてしまうのだ。安定が頭の片隅で僕を誘っている。
この安定というのはとても素晴らしくとも、実に危険なものだ。安定していたい感じていたいと頭の中が死んでいくのである。そして脳が思考を停止する。
歳を重ねるのと経験を重ねるのは全く別のものだ。経験を重ねなければ歳を取っても1+1は上手く解けないし、誰かと接して発したり受け取ったりする「ありがとう」や「愛してる」の深みも全くなってしまう。脳が思考を停止するというのはそういうことだ。
やりたいことは多いが方向が定まっていない、そんな今は思考が停止している。今僕は死んでいる。

悲観的になっている訳ではなくて現状はこんなものだ。
自覚した時点を始まりとしてまた歩き始めます。
潜在的に同じように感じる人もきっと多いのではないかとここに投稿いたします。 


〆。

この記事が参加している募集

#この経験に学べ

55,345件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?