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神殺し、あるいはその後に来たるアノミーについて

神の喪失は人類史上最も不幸な出来事だった。近代における科学技術の発展と宗教思想の零落、実存主義が現れ始めたころ「神を失うというのがどういうことか」誰もほんとうの意味でそれを分かっている人はいなかった。人々は無邪気に、残酷に、神から離れても人間はそれ単体ですばらしい生き物なのだと、自己の発見を祝福した。「神の掟」──それはいつからか、人間の自由を制限するしがらみになっていはしなかったか? 信仰なしでも生きられることを発見した人々は、掟からの解放を喜び、さっそく新しいルールと倫理の構築に取りかかった。

「神が創ったものではないのなら、人間はなにゆえに素晴らしいのか」「死後の世界がないのなら、私たちは死への恐怖をどう乗り越えるべきなのか」「罪を犯しても地獄に落ちないのなら、どうして人を殺してはいけないのか」……等々。事実はときに、人々を恐ろしい絶望に触れさせもした。「人生とはただの偶然で生まれてきて、塵芥に還るだけのことなのか?」「天国も地獄もないのなら、善行を行わなければならない理由などひとつもないのでは?」悪事を為しても、バレさえしなければ誰にも裁かれず、罰されない世界が来た(それまでは人間には気づかれなくても神が必ず見ていたのだ)。死は神の御許に召されることだという前提が覆り、それはありとあらゆる成果を無に帰す凶暴な刃でしかなくなった。そこにはもはや殺人を拒むべき理由も、自殺を押し留める理由もなくなり、人類には神の発明以来いちども経験したことのないような無規範状態が訪れた。

「どうして人を殺しちゃいけないの」と子どもに問われたとき、説得力のある回答を返せる人間がいまどれだけいるだろう。神が生きていた頃は、聖書の引用をして聞かせ、それが神様の御心だからと諭せばそれでよかった。それは当然の摂理なのだし、疑いを挟む余地はなく、また最も強制力のある回答だった。神への信仰は「罪の意識」を担保する──そのほかのどんな理由が消えてなくなっても、「神様が見ている」というただその一点において、人は悪事に罪悪感を抱かないわけにはいかなかった。それは魂を裁く摂理であるがゆえに、法的な刑罰、社会的制裁といったいかなるサンクションよりも強い影響力を持った。

ところが神の喪失と同時に、社会はこうした倫理を完全に失ってしまったのだ。「神がなければ、すべては許される」──まさしくそうした世界の到来だ。よって、現在わたしたちは罪についてこう考えている。「人を殺してはいけないのは、それが悪いことだと多くの社会成員に思われているからだ」あるいはもっと単純に「刑務所に入れられるからだ」と。

ものを盗んではいけません あなたが盗まれないために 人を殺してはいけません あなたが殺されないために ────「アノミー」amazarashi

そこにあるのは断じて罪の概念ではない。この道徳は個人の心理的罪責感からはかけ離れたところにあり、利己的な自己防衛のための論理を基盤としている。すなわち、これらすべては「人を殺してはいけないのは社会に迎合するためだ」という一点の理由だけに集約される。この罪の概念を喪失した「あたらしい規範」は、逆説的にこうも捉えられる。「もう社会に迎合するつもりがないのなら、何をやってもいい」と。家族や友人といった絆(しがらみ)が弱々しいものでしかないとき、それを断ち切れる人間は、いつでも無敵の人になれる。社会に馴染みたいという欲求ひとつ捨てさえすれば、良心的行動を強制するものは何ひとつ無い──これが、人間が神の掟と引きかえに「自由」を得たことの証明だ。


無論、知識人や権力者がこのアノミー[無規範状態]を前にして何もしなかったわけではない。神が殺されたのなら、民にはそれに代わる王が絶対的に必要だ。彼らを「自由と孤独という絶望」のなかに放置しておくわけにはいかない……しかしこの新しい王の創設は、”人が人を管理する”という形でしかあり得なかった。神と人の関係はつまるところ支配/被支配の構図を取っており、それを模した地上の政治はそのよりいっそう劣ったパロディとしてしか現れなかったのだ。

善悪の規範、生命の連続性、存在価値の証明を失った人々のもとに、やがてナショナリズムがあらわれた。「国家崇拝」という宗教は、多くを喪失した人々に生きる意義と価値を復活させた。「わたしの命は滅びるが、されどフランスは永遠である」──人間の命は国家の礎という概念に回収され、決定的に有意味なものへと転化された。人々は諸手をあげて「自由という重荷」をあたらしい神様に明け渡した、あとはE.フロムの述べた通りである。こうして地上の宗教は世界大戦によって見るも無残な自滅を遂げ、あとには信仰への恐怖感だけが残った。いま人々が信仰できる唯一の「大きな物語」は、資本主義社会での金銭的成功だけである。



神の存在がなければ秩序もない。信仰がなければ良心もない。愛する理由がなくなった、殺さない理由がなくなった、(そうなのではないか?)わたしにはその疑問だけでもう耐えがたいのだ。(信じさせてくれ)どんな摂理も絶対ではない。(信じたかった)だから絶対に認められない。

人がこの分裂しそうな無力感に苛まれるとき、けれど「愛する理由がない」ことをこれほどまでに悲痛に感じられるのなら、むしろそのこと自体が、一縷の希望のようにも思えるのだ。強烈な不信と怒りのなかにそれでも「正しく在らせてほしかった」という願いが隠れているのなら、それこそが最も根源的な人間の善性、良心であるのかもしれないからだ。



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※22年3月で更新停止。ありがとうございました。

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とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?