「信仰とは神と人との間で結ばれる両者に対して脅迫性を持つ契約である」
これから書く文章は厳密には私の思想ではないです。仮の思考回路を置いてその上で同じ命題を検証するとどうなるか、という実験。とはいえ、普遍的に共通すると思われる箇所に関しては私自身も同様に思うので、全てが思想外というわけでもない。それにしても些か偏っているようには思いますが。
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救済が先か信仰が先か、ということに関しては、福音書で繰り返し述べられている通り、信仰が先でしかあり得ない。救いが訪れないことに対する不満は必ず不信に原因がある。一度は奇跡をその身に授かった者でさえも信頼を失えば剥奪されるほど、それは厳命な理論だ。神の沈黙を疑う声でさえ、最終的にはこの一語で封殺されて然るべきだ──「信仰の薄い者よ、なぜ疑うのか」。
暴力的な盲信の強要とも捉えられるが、実際これには宗教心理学的に見ても正当な理由がある。肉である神の子を持たない現代世界において、神による救いとは常に内面で理解されるものとしてしか存在しない。間接的に牧師や教会が関連しているとしても、救済の核とは出来事ではなく心理だからである。宗教的な意味での救済は決して劇的な外部世界の変化を表すものではなく、単に肯定的な方向を指す心理的転回である。全てが内面世界で起きるものである以上、この心理的転回の原因を外部に求めることはできない。
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私のことを好いてくれている人だけに見せたい感じの日記や論考などを書きます。23年8月から24年7月末まで更新。
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