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シンエヴァにおける前近代的共同体と入浴の表象について



第三村があまりにも私の理想の風景すぎて幻覚かと思いました。エヴァでこんなものが見られるとは……。

シンエヴァが公開されてから初めて新劇場版を見始めたガチガチの初心者なんですが、今ほんとうにこれまで折れずに見続けてきて良かったなあと思っています。それは自他境界、他者との一体化、精神的受容と拒絶についてこれでもかというほど壮大なストーリーを通して語っていただいたから。わたしたちが日ごろぼんやりと感じているものを、アニメーションとしてこれほど上手く落とし込めるのかと……長年支持されてきたものにはやはり理由がありますね。


シンジが感じているのは人が怖い、誰も自分を愛してくれない、だから心を開示したくない、という徹底した他者への拒絶感。それは孤独というどん底の恐怖と同時に、「でも誰にも傷つけられずに済む」という安堵を与えてくれるのだろう。

一方で人類補完計画はその心の壁を完全に取り払うもの。自分と他人の境界は薄れ、すべてのものが融合する。そうすれば争いも格差も暴力も──あらゆる悲しみは消え去る、とされるのは道理なのだろう。こうした衝突は、そもそも「わたしとわたし以外の誰か」が存在していることにそもそもの原因があるのかもしれないのだから。


拒絶される恐怖、他者に傷つけられる/他者を傷つける恐怖、理解し合えない恐怖。これらは人間の根源的な悩みの種で、これをどう克服するかは人生において最も重要な命題にもなり得るだろう。ひとつには「初めから誰とも関わらずに一人で生きる」という結論がある。そして「なにか大いなるものと、あるいは愛する他者と一体化したい」ひとつになりたい、と願うのもそれに対するひとつの回答だ。

両者は正反対の行動の指向性を持っていながら、実は同じ欲求に端を発していると考えられるのだ。


国家とアイデンティティを融合させるナショナリズム、他者と同じ運命を辿りたいと願う心中的な共滅願望、愛情の渇望からくる性行為の嗜好、これらもすべて「誰かとひとつになりたい、一人はいやだ」という悲痛な叫びの結果なのではないか。


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※22年3月で更新停止。ありがとうございました。

とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?