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聖書における「子羊」とは誰なのか──犠牲者か、被救済者か?

聖書における羊とは何か。ヨハネ1・29ではイエスを指して「見るがよい。世の罪を除く神の子羊だ」という言葉が用いられる。[神の子羊]はイエスに対してのみ使われる表現であり、その由来は生贄としての羊にある。ユダヤ教では神への捧げものの生贄として子羊を屠る風習があった。創世記の「カインとアベル」の頃から、羊はもっとも尊い捧げものとして描かれている。収穫物としてアベルは肥えた羊の子、カインは農作物を捧げたとき、主なる神がアベルのみを良しとされたように。

そしてこの生贄としての羊に関して、最も有名なエピソードは出エジプト記における「主の過越」(12・1-)である。神(ヤハウェ)は、神を否認しイスラエル人を迫害するエジプトの民に災いを下すことを決める。このとき神は、「門柱と鴨居に屠った子羊の血を塗っている家には、その災いを与えない」という誓いを預言者モーセに与えられた。
モーセはイスラエルの民に「さあ、群れの中から羊を取ってきなさい」「神があなたがたを手にかけないで過ぎ越してくださるように、その羊を屠りなさい」という指示を出し、その通りにした彼らは災いから逃れることができた。
以降、ユダヤ教では「神が私たちを過ぎ越してくださった記念日」として、この日を祝うようになった。なお、新約聖書でイエスらがエルサレムに入るのはちょうどこの過越祭の時期である。イエスが[神の子羊]と呼ばれるのは、このときイスラエルの民の救いのために屠られた子羊のイメージと重なるためでもある。

もっと直接的な表現では、イザヤ書53・7-の「彼は……子羊のように大人しく屠り場へ連れて行かれ、毛を刈り取られる羊のように、非難を浴びせるものたちの前に黙って立ちました」に始まる一連の記述がある。旧約聖書にはイエス到来の予言とされている箇所が幾つもあるが、ここもその一つである。
冒頭に紹介した「見るがよい。世の罪を除く神の子羊だ」という洗礼者ヨハネの言葉も、「イザヤ書に予言されていた人こそ、イエスだ」という意味を含むものであると考えられている。また、イザヤ書には「彼」が裁判にかけられ、刑場で殺されるのは「罪の赦しのための捧げものとして」であると記されている。ここでも子羊と神への供物のイメージが近接する。

すなわち[子羊]とは、より多くの民が恵みを得るための生贄であり、民を幸福にするために死ぬ犠牲者である。[子羊]の犠牲死は、それが文字通りの意味であれ比喩であれ、神の意志に適っている。


しかしながら、聖書にはイエスが[羊飼い]に喩えられている箇所も非常に多い(むしろそちらの方が一般的ですらある)。この[羊飼い]と[羊]の両用はイスラエル王ダビデにも例がある。もともと羊飼いを職業としていた影響もあるのか、彼の記した詩編には「主は私の牧者です」(23・1)「私たちは神の羊であり、神は羊飼いなのです」(95・7)などの言葉遣いが多く見られる。ここでの彼の自認は[神の子羊]である。
ところが、ヤハウェが「悪い羊飼い」の特徴について語るエゼキエル書(34・1-)では、民を牧する模範的な善い[羊飼い]の例としてダビデの名が挙げられている。ヤハウェは民の中でもひときわ人々を導く資質を持つ人間を[羊飼い]と呼ぶことがあるらしい。

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