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ポンス・ピラトと大審問官──"神の摂理"に反逆する物語

R.カイヨワの小説「ポンス・ピラト」を読みました。カイヨワと言えば「戦争論」や「遊びと人間」で有名な人類学者であるので、え、小説も書くの?と思われる方も少なくないのではないでしょうか。日頃社会学や人類学をやっている思想家が突然キリスト教文学(それも総督ピラトを題材にした思考実験的な小説!)を書くということそれ自体がちょっとイワン・カラマーゾフムーブで面白いです。この記事は全員カラマーゾフの兄弟が好きという前提で書くのでついてきてください。

主人公は使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」とある、あのピラトです。当時のユダヤ総督であり、イエスを鞭打ち、処刑することにGOサインを出した権力者として知られていますが、実際には中間管理職的な立ち位置であり、イエス処刑の責任者になりたくないということで責任を逃れようとしていた節は聖書にも見られます。

ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起きそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」

新共同訳マタイ27:23


カイヨワはどうにか「責任逃れ」をしようと苦心するピラトの心情を描くが、ここも現代人に通ずるものがあって面白い。そこはかとなく池井戸潤的な描写です。

ところで、従来権力におもねる小心者といった表象をされてきたピラトの葛藤に寄り添っている点がこの小説は画期的である。その眼差しは中盤、「なぜピラトが悪人と呼ばれなければならないのか?」というキリスト教の根幹に対するアンチテーゼとして開花する。
イエスが十字架につけられることで人類を贖うためにこの世に来たのならば、ピラトの苦悩とは一体何なのか。それは人類救済計画へのたぐいまれなる献身として賞賛されても良いはずではないか。イエスは死ぬことを望んでおり、民衆も彼を十字架につけろと言う。しかし後になって彼が本当にメシアだったことが証明され、「キリスト教」なるものが成立した暁には、ピラトの名は永久に、メシアを殺した愚か者として歴史に刻まれることだろう。ユダヤの民も、いずれはピラトの罪を詰るようになるだろう。

この見方はグノーシス派のユダ解釈と近接している。グノーシス派では、裏切り者と呼ばれてきたユダを、彼こそ神の大いなる「救済計画」に協力した偉人であると見ている(異端解釈である)。実際、カイヨワの小説におけるユダはこれに似た考えを述べる。
なお息せき切って5ページぶっ通しで喋り倒し、最後には興奮のあまり癲癇発作を起こして倒れるユダの姿は太宰治の「駈込み訴え」を彷彿とさせる。

とにかくありふれた人間とおなじように天寿を全うするようなことになれば、「贖い」は台無しです。けれども、イスカリオテのユダのお陰で、そしてまた総督、あなたのお陰でそんなことになりはしないのだ。[…]わたしは密告者じゃない、裏切者でもない。あんたとおなじように、神の「御心」の執行者だ。

R.カイヨワ「ポンス・ピラト」金井裕訳


ユダはイエスのためにこれを実行するが、しかし、万人から指をさされ裏切り者と罵られることには耐えられず、「おれも、あんたも」首を括るしかないと叫ぶ。
このユダは執行者となれることを栄誉だと(5ページもかけて)語りつつ、しかし同時にのちのちの迫害に耐え抜けるような強い人間ではないのだ。自殺を予感しながら、ピラトを破滅に向かう運命共同体と見做して必死に語りかける彼の姿は真に迫るものがある。しかしピラトはきわめて宗教的敬虔さの薄い人間であり、そうまでして「神の御心の執行者」になることには価値を見出せない。

ここに至って、ピラトの胸中にはある疑念が抱かれる。

──わたしは思うのだが、とかれはいった、ソクラテスにしろルクレティウスにしろ、固有の権利を確立するために、不正と一人の人間の卑怯な振舞いとを必要とするような宗教など認めはしなかっただろう。

R.カイヨワ「ポンス・ピラト」金井裕訳


ブラーヴォ!こうなったらもうイワン・カラマーゾフじゃないですか!!!!


ピラトの疑念はこうである。自分は、イエスに死刑にされなければならないほどの罪など無いことを知っている。自分がイエスを処刑するとしたら、それはただ民衆の暴動を恐れ、またローマへの告げ口を恐れたがためである。これは不正であり卑怯な行いだ。ユダが密告によって師を売り渡す行為も卑怯である。ならばイエスの宗教とは、ユダや自分に卑劣な行いを”要求する”ものなのか?
であればその神殿は、イエスの遺体に加えて、自分たちの”永遠の汚名”の上に築かれるのだ。


かりにお前自身、究極においては人々を幸福にし、最後には人々に平和と安らぎを与える目的で、人類の運命という建物を作ると仮定してごらん、ただそのためにはどうしても必然的に、せいぜいたった一人かそこらのちっぽけな存在を[…]苦しめなければならない、そしてその子の償われぬ涙の上に建物の土台を据えなければならないとしたら、お前はそういう条件で建築家になることを承知するだろうか、答えてくれ、嘘をつかずに!

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 上」原卓也訳


イワンの場合は子供の涙を例に挙げたが、ピラトがこの条件に挙げているのは大人の卑劣な行為である。一体いかなる神殿が、その土台に裏切りと不正を要求するというのか。ユダは首を吊ると言い、ピラトも同じ運命を示唆されているのだから尚更である。
重要なのは、この反逆が「神の存在の否定」ではなく「神の摂理の否定」として立ち現れていることである。それほどべらぼうな値段を払って買わなければならない真理など、真理として認めるわけにはいかないというわけだ。ポンス・ピラトの場合は、その場合支払われる対価としてピラトのみではなくユダまでもを射程に捉えているところがたいへん嬉しい(個人的感想)。

しかし一旦立ち位置を変えて見ると、このピラトの疑念は単にメシア否定に端を発しているものだとも言える。彼はイエスを”信じなかった”。この小説の結びは是非とも各々確認してほしいところなので詳細は伏せますが、カイヨワは恐れ多くも小説の中で神の摂理を屈服させたのである。しかし他のどんな描写にも増して、”現実ではそうはならなかった”という前提が大きな意味を持つ。これはひと言で言えば痛烈な皮肉なのであり、カイヨワがなぜこのような小説を書いたのかを思うとああ、大審問官!と叫ばずにはいられないのだった。

カイヨワはあとがきでピラトの疑念について、「この問題でのわたしの立場が明確だったわけでもない。もっとも注意深い読者なら、わたしが結局のところどちらに加担しがちか簡単に見届けられることだろう」……と何やら思わせぶりな書き方をしている。これは元からそのつもりで書いたわけではないが、「結果として」反キリストの立場らしくなった、ということの表明と見える。結末には近代西洋的な、あるいは実存主義的な個の意思への賛美が見て取れるからである。もっとも、これまで「聖なるもの」にたいする信仰の変質について詳細に語ってきた彼がこの立場を取ることには特に不思議もないのだが。

「戦争論」ないしナショナリズムの歴史を鑑みるとき、「もし神が存在しないなら、神を発明しなければならない」というあのヴォルテールの言葉が否応なく脳裏をよぎる。近代の孤独に立たされた人々が”次なる神”としてファシズム的指導者、また国家という地上の王国の幻想を求めたのは明白である。カイヨワは戦争を礼賛する人々の心情を指して「信仰」という語を使っている。彼は地上の王国が欠陥品であったのと同様に、天上の王国もまた瑕疵のあるものと考えてたのだろうか。


しかしながら、カイヨワが自らのホームである論文ではなく小説の形で、それも二千年前のイスラエルを舞台にして、こういう物語を書こうとしたのは驚嘆に余りある。イワンの劇詩「大審問官」にしても同様であるが、まず丹念に聖書を読み尽くして検討する必要があるほか、物語というものは往々にして登場人物を「生身の人間としての彼」にしてしまう。物語の中で聖書の登場人物を動かすことは考察ではなく想像なのである。長い間それに向かい合おうとする聖書への熱意、それにともなう愛着がなければ成立しえない。
あえて俗っぽい言葉を使えば、聖書の二次創作なわけなので、「彼」を憎んでいるにしろ信じているにしろ何がしか大きな感情がなければこんな仕事には取り掛からないと思うのです。

私は別にカイヨワの専門家でも何でもないため解釈を誤っている可能性はあるのだが、ポンス・ピラトに大審問官の風味を感じる……あと駈込み訴え。は事実なので、このあたりがお好きな方には是非ともお勧めしたいと思う次第です。
あと、なぜ自分が裁可をしなきゃならないんだ、面倒な仕事だな……と思っていたピラトが「わざと群衆の前で水で手を洗って見せなさいよ、そうすりゃあなたに血の責任はない、潔白だってことになりますから」などと言われて初めて何、自分に卑劣な人殺しの咎があるというのか??とイラつくところもカラマーゾフポイントが高くて面白いです。



とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?