「赤ちゃん欲しい?」──これからの反出生主義が抱える「ちいさな」課題
ここ数年で、ネット上では「反出生主義」という言葉がよく見られるようになってきた。デイヴィッド・ベネターの「生まれてこないほうがよかった」に基点を置く思想──悲観主義ではなく道徳的な観点から、出生をしないことを決意する人々も一定数存在している。
そんな中で先日私が友人から受けた相談は、これからの反出生主義者が直面する課題を予感させるものだった。
「赤ちゃん欲しい?」
友人に向けて恋人から発せられたこの言葉は、日常生活の中ではなく性行為の最中のものである。彼女は以前から反出生思想を持っており、そのことを恋人にも告げていたにもかかわらず。
あああ〜〜〜〜〜…………と思わず呻いてしまった。生々しい話だが想像できてしまう。彼氏としてはそういうプレイの一環だったのかもしれない。性行為と妊娠は直線的に結びついていて、「相手を受け入れ、一生ともに生きることを許す」という最大級の結びつきの表現として、「あなたとの赤ちゃんが欲しい」という言葉は至上の肯定を意味するのだ。
この質問の裏には、間違いなく「欲しいよね?」という肯定への期待が隠れている。「いや、愛する人と身体を繋げるスキンシップとしての性行為がしたいだけで、私は反出生という思想を持っているので赤ちゃんは欲しくないんです」
言えない……これを言うのは死ぬほど難しい……。
友人は空気を壊したくなくてその場では頷いたが、どうしても複雑な表情を隠せず、相手にもそれが伝わってしまったようだと苦しげに言った。
反出生主義は、あくまでも出産と子どもに関する思想である。悲観主義からくる反出生はその限りではないが、ベネター式では自らが人生を幸福に生きることと出生を否定することは両立するし、したがって恋人や伴侶を持つことにも何ら矛盾はない。ヘテロセクシャルの人は好きな人と交わりたい(避妊前提で)という感情も当然抱く。
問題は2つある。まず、以前から恋人に「子どもは持ちたくない」ことを伝えていたにもかかわらず、相手がそれを「主義」ではなく「一時的な感覚」だと捉えていたこと。
そして私たちが自分事として考えるべきなのは何よりも、「反出生主義者自身に生じる罪悪感」の話である。
①反出生主義をどうやって「伝える」か?
私もこの主義を持つにあたって、将来結婚した相手が子どもを欲しがる可能性のことを考えなかったわけではない。結婚まで考える相手ができればいつか「私は絶対に子どもを産むつもりはない」ことを伝えなければならないだろうし、そのタイミングはできるだけ早い方がいいだろうとも思っていた。
けれど前述の話を聞いて、その認識が甘かったことを思い知らされた。男性が出生主義者で、私たちが若年女性である場合、その意見はこう見なされるのだ。
「そうは言っても、女性は結局は結婚と出産をしたがるものだし、その気が起きないのは若いうちのいっときだけだろう」
この認識の断絶は大きい。実際問題として、10代後半から20代にかけて「子どもとかは別にいいかな」と言っていた女性がさまざまな人生経験の中で考えを変え、出産に至ることはまあまあの割合である。反出生主義者がこれと違うのは、この考えが「主義」である点にある。
「子どもを持つ気が起きないから産まなくていい」のではなく、「子どもを産みたくない」という思想があり、その背景には理論がある。反出生主義者の主観的には出生は"悪"であり、根底にあるのは罪を犯したくないという意識なのである。(もちろん、あくまでこれは主観的にの話であって、実際どうなのかはまだ議論の余地があるとしても)
「私は子ども欲しくないんだよね」……あくまで日常的な会話の中に溶け込ませてこう言う分には、そうハードルは高くない。友人の場合も角が立たない程度にそう告げており、相手もその考えをいくらかは理解してくれていると認識していたようだ。
だが現実には「歳を重ねればいずれ考えも変わるだろう」と思われていた。親や職場の人、周囲の友人などにはそう思われていても大きな弊害はないとしても、恋人相手ではシャレにならない。もしいよいよ結婚しようかとなってからこの認識の断絶が明らかになったらと思うと恐ろしいものがある。
とはいえ恋人と過ごす時間の中で、突然真剣に「私は反出生主義という思想を持っていて、これこれこういう理由で子供は産まないことを決めているのです」と話し出すのは正直かなり厳しいことは想像に難くない。
相手がこの考えに触れたことがなければ──これまでも多くの出生主義者に激しい拒否反応を示されてきたように──恐らく「何を言っているんだ」と思われて終わりだろう。
私たちとしても、「相手に反出生主義者になってほしい」わけではないため、思想そのものについての議論は望むところではない。
このようにして「正しく伝えられない」ことをずるずると続けているうちに、冒頭で述べたような危機的状況に立たされる可能性があるのだ。これは女性に限らず、婚姻の可能性があるすべての反出生主義者に言えることである。男性の場合は女性に「産まないことを要請する」形を取るため、その困難はより大きいものになる。
②反出生主義者に生じる罪悪感
「赤ちゃん欲しい?」という問いに「いいえ」と答えること。その想像をしたときに広がる罪悪感はいったいどのような要因から来ているのだろうか。
まず第一に、その返答は相手の期待を裏切ることになるという事実だ。自分が恋人のことを愛していればいるほど、首を横に振ることへの罪悪感は強まる。
「好きな人が自分とともに過ごす人生を望んでくれているどころか、自分との子どもが欲しいとまで思ってくれている」
この奇跡のような状況を前にして、後者を拒否しなければならないことへの葛藤が生じるのだ。
いくらかの人には「え? どうしてそこで葛藤するの? 子どもは要らないはずでしょ?」と思われるかもしれない。ところが、これは現在まであまり議論されていないように思われるが、反出生主義であることと、「好きな人との子どもを持ちたい」という欲求を抱くことは両立する。
それは、「恋人が欲しがっている、子どもという『モノ』を与えてあげたい」という形で。
もし子どもという存在を人権のない、苦しめても傷つけても構わない「モノ」だと思えるのならば、私たちは喜んで恋人にそれを与えてやるだろう。出生主義者がよく夢想するイデア的な「幸せな家庭」には必ず子どもの笑顔があることを知っている。彼がこれまでの人生を、ごく当然のようにいつか自分もそういう家庭を築くのだと信じて生きてきたことを知っている。それを思えば、恋人に理想的な未来を与えてあげたいと願うのは自然な欲求だろう。
しかしそれは、言うなれば「好きな人のための出生」である。そこに将来生まれてくる子どもへの懸念や配慮は一欠片もない。真の意味での「子どものための出生」は成立しえない──これが反出生主義の考え方である。だから、考えの主軸を子どもの側に置けば、私たちはその加害性に怯まずにはいられないのだ。
もし自分が出産してしまったら、子どもに苦痛を経験させることになる。産んだという罪を抱え続けることになる。それを分かっていてどうして「好きな人のための出生」を行うことができるだろう。
ゆえに、どちらを選んでもどちらかへの罪悪感が残るという状況が生じるのである。
「反出生主義者のまま産む」という恐怖
「自分以外の相手と結婚すれば彼は望み通り子どもを持つ人生を送れるのに、自分がその未来を奪うことになるんじゃないかと思ってしまって」
友人はこのような言葉でその葛藤を語った。実際にはこれから生まれてくる子どもに実存はないのだから「奪う」ことにはならないが、それはあくまでも理論の話だ。
理性的には反出生主義を支持していても感情的にはそれを貫くのが苦しい、という事態は当然生じうる。「苦痛を感じる主体を生み出すべきではない」というベネター式の反出生主義は道徳の要請からなるものだし、私たちは道徳に反する人間の本能を抑える必要があるのだから。
ところで、世の中にはさまざまな理由から「産みたくても物理的に産めない」カップルも多く存在する。先ほどの「自分のせいで……」という悩みは片方が不妊症である場合などに聞かれるものとかなり近しい言葉遣いである。
しかし反出生主義者は「物理的に産めない」人々とは一線を画するところに居る。だからといって自責の念を負わなければならないわけではないはずだが、「産めるけれど自分の主義で産まない」という事実は、主観的にはいっそう重い罪悪感となってのし掛かる。
上記の理由以外にも、「そのような理由で子どもを持てないと分かったら愛想を尽かされてしまうのではないか」という危惧も大きなものとしてある。不妊の人がそれを理由に振られることすらある世の中だというのに、反出生主義者はよりいっそう「ただのワガママ」だと捉えられてはしまわないだろうか。
友人があるいはと語るのは、「反出生主義のまま産む」ことをしてしまうかもしれないという恐怖だ。この恐ろしい矛盾は、しかし「道徳的に悪いことだと分かっていながら悪事をなす」という点で人間には往々にして見られる行為である。
反出生主義という言葉に出会っていなくても、今までの世の中にも「産めば子どもに苦痛を感じさせることになる」という考えを抱いていた人は居ただろうし、それでもさまざま周囲の圧力や自責の念によって出生を選んだ人もまた居ただろう。あるいは、それに耐えきれず「いいや、出生は無条件に良いことなのだ」と自らを正当化してきた人も。
反出生を支持するのなら、できるだけ罪を犯さないことを選ぶべきだ。私も友人もそう思っている。だが、出生主義の風潮が強すぎるこの社会の中でそれを貫くことは、時にとてつもなく難しいことなのではないか?
出生主義者には「そんなことで悩んでないで産めばいいじゃん」と言われてしまいそうだ。だが私たちは自分の良心に誠実でいようとすればするほど、「恋人に子どもを与えてあげたい」という悪性の欲求との葛藤に苛まれる可能性があるのだ。
私たちが議論すべき「ちいさな」課題
ネット上で主流となっている反出生主義に関する議論は、まだまだ「それは理論上正しいのか」というところに留まっている印象がある。しかしこの思想が認知度を上げてきた現在、それを実行したときにどのような問題が生じるかもこれから検討していくべきだろう。
それは「人類が滅亡するのでは」というような遥かな未来の話ではなくて、「恋人に対する罪悪感をどう消化していけばいいのか」「恋人に自分が反出生主義者であることを伝え、理解してもらうにはどういう方法があるのか」というきわめて個人的で、感情的で、日常に根ざしたベクトルの話だ。これは反出生主義における”大文字の歴史”とは流れを異にするちいさな課題であるが、決して無視できることではない。
「赤ちゃん欲しい?」恋人にそう聞かれたとき、正しく意思を伝えられる方法を私たちはまだ持っていない。友人の相談を受けて何よりも衝撃的だったのは、そのことに関する議論を私はほとんど目にしたことがなかったし、自分でも深く考えていなかったということだ。
これは反出生主義者自身が、自分たちで解決策を見つけていかなければならない問題だ。だからこそ我が身にこの危機が降りかかる前に、一度「いつ、どう伝えるか」あるいは「伝えられるのか」を検討してもらえたらと願ってやまない。
最後に、解決の糸口を知りたいという願いのためにこのプライベートな話題を掲載することを許可してくれた友人に感謝を述べる。これを機に「反出生主義のちいさな課題」についての議論がなされることを切に願って。
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