見出し画像

うっかりこぼれる一人称。

社会に出たての頃、先輩と何気ない話をしている時に言われた。

「きみ、早口だなあ」

「そうなんです、早口なんです。焦ってしまって」

頭を掻きながら笑って返す私に先輩は、

「『私』が『わし』に聞こえる」と付け足した。

私は心の中で照れ笑いをしながら、

『合ってます。今、『わし』って言いました』

とやっぱり心の中で呟いた。


20歳の頃には、早く40代になりたかった。
私には同年代の人のスピードは速くて、ついて行くのがやっとだった。流行の波を乗りこなし、会う度に違う話をしている。映画に仕事にゲームの話、香水に音楽に美味しいお菓子のお店のこと。会話のテンポもステップを踏むように軽快で、情報を仕入れては色とりどりの花を咲かせるように豊かに話題を切り変えていく。

私は花や空や景色をのんびりと眺めながら散歩するくらいの早さで丁度よかった。例えば美術館に行くなら二時間程掛けてゆっくりと観ていたい。でも、友人たちはその半分か四分の一位の時間で十分愉しめる。

体は二十歳、心は年寄りでありたかった。日溜まりの縁側で日本茶を啜って膝に猫を座らせているおばあさんに憧れていた。そうして隣に座る孫に「おばあちゃん眠ってるの?」と素朴に尋ねられながら、あったかい縁側で人生の幕を穏やかに引くのがいいと思っていた。

今だに時々、一人称が『わし』になるのは、そういう気持ちの延長線上である気もする。


思い返すと、中高生の頃、友達の何人かは自分自身の事を『僕』や『俺』と呼んでいた。

特に中学生の時期は、男女とも性別付けが明確なようでいて、所々線引きがされていなかった。男の子にしても、思春期にすね毛が生えてくると自分が今までの自分と別の生き物になるみたいで嫌だと言っていたりした。

彼女らの一人称は、私が『わし』という響きに何かを託していたように、各々感ずる所があるがゆえの『俺』であり、『僕』だったようにも思う。その呼び方が一番、当時の心境にしっくりと馴染んでいたのだろう。

私には彼女らが抱えているものの大きさを伺い知れなかったけれど、「俺にまかせとけ!」と言い切るような男前な彼女の横顔は、環境的に強くあらねばならなくて、自分を奮い立たせるために『俺』と呼んでいたように見えた。


最近、稀に『僕』と口をつく時がある。無意識に言っていて、雨粒がひと雫だけ空から落ちてきて手に触れたみたいに、こぼれた言葉にふと気付く。

「僕はそう思うなあ」

ぽつりとそう言っている時、私の中身は多分、おじさんかそれに近いものだった。そうして、どことなく疲れていて、力が抜けている。特定の理由を明瞭に説明できるわけではないのだけれど、自分の中にあるどこかしらの感情と折り合いをつけている気がした。

私の中の『私』には、呼び方としての性別がない。勤め人だった頃の上司も同僚も、性別に関係なく一人称が私だった。田舎ではおじいさんもおばあさんも『俺』や『わし』と呼んだりするので、そこにも性別の区別がなかった。

私が『私』と言う時、なんとなく気持ちの上では使い勝手が良かった。

どちら側ってこともない曖昧な呼び方。私という人間のカテゴリーを希釈してくれているような認識で捉えている節があった。この感じ方もまた、私の中で足りていない何かを補っている気がする。

そもそも私の中には性別の区別もあまりなかった。女の子の友達と一緒にいるのは嬉しい。けれど、ちょっと緊張もする。男の子に混ざっている方が気楽だった。女の子と居る時、私はお客さんみたいな気持ちになる。いつも何となく、自分と違う世界に生きている人たちと一緒にいる気がして、場違いに思っていた。

どちらかというと中性的なものが落ち着く。

それは見た目というよりもハートの部分で、女性的な部分と男性的な部分を半分ずつ持っているのがいい。髭もじゃなおじさんの笑った顔が可愛かったら素敵だと思う。女性の靴や服が可愛いので身に付けてみたいと思っている男の人の心は、私よりも多分乙女だ。例えば好きな人が側にいると照れ笑いをしてしまう、そういうものが垣間見える時、性別は関係なく可愛い人だなと思う。

勤めていた頃は、動きやすいからという理由でLevi'sやBOBSONのジーンズをはいていた。短髪でいることも多くて、時々、男の子と間違えられた。女性と思われるよりも男の子と間違われる方がなんとなく安心した。ダボダボでサイズの合わない上着を好んで着ていた。それでもスカートが嫌いなわけではなくて、改まった場ではマーメイドタイプのイブニングドレスや着物を着たりもした。いつもと違う服装は、それはそれで楽しい。

でも、二十歳の頃より今の方が、気持ちが少し楽な所もある。

ここ10年ほどで、随分体型が変わって平たくなった。胸元が平たい体は気楽だ。冬場などは寒い日に上着を着込む時に着膨れしにくいので、重ね着が楽にできる。

なによりも、自分をどこかへカテゴライズする要素が減ったことで、気持ちが楽になった。

中性的というと、男性と女性の間の位置付けのように聞こえるかもしれないけれど、求めているのは多分そういう事ではなかった。女性という分類の端っこにいる感じが落ち着く。

例えば私の声は、電話口の人には子供の声のように聞こえる。また、少し前に髪を切った時には3人くらいの知り合いに「可愛らしくなった」と言われた。子供寄りになったという意味合いだ。化粧をすればもう少し女性らしく見えるかも知れない。内も外も要素としては女性である。

うっかり『僕』という一人称がこぼれた時、何を考えていたのか、まだよくわからない。自分という認識を希釈しているように思うし、元々自分の中にあるもののようにも思う。

バランスを取るために、誰しもの中にある無意識のもののようにも思う。


お読みくださり、ありがとうございます。 スキ、フォロー、励みになります。頂いたお気持ちを進む力に変えて、創作活動に取り組んで参ります。サポートも大切に遣わさせて頂きます。