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あなたや私を分けるもの

最近、アプリのユーザー登録やアンケートの回答で性別を尋ねられる際、「男女」の二択だけではなく、三つ目の選択肢、「無回答」「その他」「答えたくない」等を伴うようにもなってきた。性別への触れ方が少しずつ変わってきている。

性別は日常生活の中で折につけ問われるものの一つだ。それは住所や氏名や年齢と並んで、その人を識別する材料の一端となるからだろう。

娘の通う学校でも、女子の制服はスラックスとスカートのどちらを履いても良いし、首元もリボンとネクタイを両方選べる。
入学する少し前、私は制服の申込書を眺めながら、娘に尋ねた。

「スラックス、履きたい?」

「うん」

特に迷うこともなく返事が返ってきた。

「スカートは要るの?」

「両方がいい」

「そうか。まぁ、好きにすればいいんじゃないかな」

娘はゲームやアニメをする時、ふわふわと甘い砂糖菓子のように可愛い女の子や、軽口をたたきながら大人びた余裕を見せるイケメン男子にときめく。幼い頃から特撮が好きで、戦隊と仮面ライダーとウルトラマンを毎週欠かさず観ていた。プリキュアは黄色い子がよく好みに刺さり、CCさくらは「魔法で空を飛べるならやっぱり翼を生やしたい」と目を輝かせて追いかけていた。

性別の欄の「女」に丸をつける。その事自体に娘は違和感を持っていない。ユニセックスな服を好み、男性用の服を眺めて「こういうのが着たいんだよね」と笑う。店頭のマネキンが着るヒラヒラのレースがついた服を「すごく可愛い」と言いつつ、自分で着たいという欲求はない。

入学式がつつがなく済み、季節が冬へと移ろう頃、

「きみ以外にもスラックスの子って学校で見かける?」

と娘に訊いてみた。どうやら各クラスに数人居るらしかった。

春夏秋のうちはスカートにネクタイを合わせ、涼しくなってきたらスラックスを履く。スラックスとネクタイは「かっこいいから」、スカートは「女子学生ならやっぱりシャツとスカートの組み合わせで着ておきたい」という憧れから選んだ。特にネクタイは、スーツへの強い憧れもあって、彼女の中でかなり外せない要素になっていた。

「夏はスカートの方が涼しいし、スラックスは冬あったかくて楽。それにスカートだと座る時に足を閉じないとだし」

「確かにねぇ。夏場の男子はさぞ暑いだろうから、スカートも履けるといいのにね」

そう呟く私に、そばで話を聞いていた夫が言った。

「男子はスカートを選ばないと思う。足の毛がもじゃもじゃだから」

「そうなのか」

考えてみると、日常生活ではパンツスタイルの女性をよく見かける。子連れのチノパンの人も、カートを押しているズボン姿の初老の女性も、パンツスーツをパリッと着こなすあの人も街並みに溶け込んでいる。対して、男性のスカート姿は見かけない。男子学生がその深い隔たりを「履きたいから」という願い一つをともにして翼を生やして飛び越え、スラックスではなくスカートを履いて登校するのは、現状、超えるものが多い。

スコットランドでは男性もキルトという民族衣装のスカートを履くと聞く。そんな風に、スカートに対する認識もズボンと同様、「その性別特有のもの」ではなく、「性別問わず誰でも履くもの」にこの先なれるといいと思う。

かつて、女の子は赤いランドセル、男の子は黒いランドセル、と明確に分かれていた時代もあった。
赤でも黒でもどちらを選んでもいいというのが多様性だとすると、「男だとか女だとかはさて置き、そもそも赤を選びたい子に黒を押し付けるのは良くないよね」という主旨になるだろう。

話は少し変わるのだけれど、以前、娘が「女の子は一号ライダーになれない」と悔しそう言っていった。

「いいなぁ。生まれ変わって男になったら、成長していつか俳優になって一号を演じる可能性もあるのに。女性である以上、今のところその道はない」

と悶えていた。

確かに仮面ライダーの作中で変身する女性はいる。凛々しくマントを翻して登場したり、颯爽とパンチをお見舞いしたり、舞うようにキックを繰り出したりと、様々な佇まいを見せる。けれど一号ライダーではない。

一号ライダーが黒のランドセルで、主役のプリキュアが赤のランドセルだとしたら、娘は黒を背負いたい。
なんとなく記憶を辿ると、園児の頃は短冊に「アンパンマンになりたい」「プリキュアになりたい」と書いていた。けれど、「特撮は男の子のものだからそれを好きだと大きな声で言うのはちょっと恥ずかしい」という想いを、多分彼女は抱えていた。

いつだったか、私は娘に伝えた事がある。

「何を好きでいてもいい。誰に止められるべきものでもない。ただ、この先あなたが出会っていくであろう周りの人たちが、あなたのその『好き』を受け入れてくれない時もやってくる。それでもあなたが貫きたいならどこまでも貫いていいし、つらくてやめたいから諦めるという結論を出してもいい」

果たしてどういう風に届いているかは不明だ。呪いの言葉になっていないかと時々心配になる。
もう少し緩やかな言葉を渡せればよかったのだけれど、「男の子だから、女の子だから、子供だから、大人だから、こうであれ」という表現において、それが区別や分別なのか、それとも理不尽に型にはめ込んでいるのか、という認識の取り違えは、往々にして起きる。

『好き』でいること自体をなじってくる人もいるかもしれない。幼稚園児でもないのに、女の子なのに、虚構なのに、何をそんなに夢中になって。と、一笑に付す人もいるかもしれない。
型は必要だからそこにあるのか、もしくは便利な口実として利用されているのか。見分けようとする時、そこに強い感情論が加わっていると物凄く仕分けしづらくなる。それでも『好き』を貫くのならば、激しい雨の中を傘もなしに佇むような気持ちになる時もあるだろう。その雨の中を鳥が舞うように優雅に駆けてくれればと願う。

『好き』という感情は様々なものへ向く。人に惹かれるのも同様に、異性へ、或いは同性へ、年齢が物凄く離れているけれど好きになったりと、多様性がある。例えば娘が誰かを好きになった時、彼女が相手と一緒にいて楽で、お互いに自分を下げもせず上げもせずに等身大で、同じ地面に立って話ができるのなら、それでいい。物凄くしんどいときもほんのり嬉しいときも心を渡し合えるのなら、パートナーとして男性を選んでも女性を選んでも、どちらでもいい。

しかしながら、娘の保護者は私一人ではない。ふと、夫にどう思うのか尋ねてみた。

「多様性の話なんですが。結婚する人もいればしないもいて、子供を持つも持たないも、生き方としては様々でいいと思うんです。そこでなんですけど、娘が結婚相手に宇宙人を連れてきたら、夫はどう思いますか?」

「宇宙人ねぇ」

「魚の体に足が生えているんです」

夫はふうんと少し考えるように呟いた。魚型をチョイスしたのは、安易だけれど容姿がより遠いほど、生命であるという以外に、自分たちとの共通項が見えにくい存在として考えやすいと思ったからだ。

「お互いが正気ならいいかな」

「正気なら、ですか。一時の気の迷いとか、盛り上がって感情だけで突っ走ってるんじゃなければって事ですかね」

「将来設計がちゃんとしてればいいかな。定職についていて、食うに困らなくて、住むところもあれば。出会って三週間で結婚したいですって言われたら、流石に、まぁまずは同棲してから考えたらって言うかな」

「あぁ、同棲しなよ、とはなりますね。ちょっと落ち着きなよって意味でも」

共に生活をすることで相手と自分の未来について考えられる余白が生まれる。結婚を止める気はないけれど、そういう時間を経てもらうのは必要だろう。

「妻は魚型宇宙人はダメ?」

「私は、地球に住むにしても宇宙人の故郷に住むとしても、どちらかが偏見に晒されると思うので、お互いにしんどい時でも支え合えるならいいです。その覚悟があるなら」

「まぁ、文化の違いは国際結婚でも立ちはだかるからね。日本国内でだって、地域が違えばしきたりも違うわけで、それで苦しんでる人も勿論いるし。宇宙人だからってことはないかな」

夫はふと言葉を止めたあと、

「理性はそう言ってる。感情は別なんだろうけど。それは同姓を結婚相手に選んだとしても同じことよ」

と付け加えた。

私はどうだろうと改めて問いかける。理性はそう言っている。感情としても、女の子が女の子に恋をする、その事への抵抗はない。人が人を好きになる、その心の在り様に不自然さはない。立ちはだかるものは「常識」だ。

ハタチの頃、親しい女の子の家に泊まった夜、オレンジ色の薄暗い明かりに照らされる部屋で、彼女の寝顔を見ながら、「この子とならキスできるな」とぼんやり思った。ただ、付き合っていないのでそういう事はしなかった。
感覚的に自分の中には、女だからとか男だからという垣根があまりなかった。別の言い方をすると、みんなのことが好きだった。ただ、女性の集まりの輪の中に居ると、自分が少し異質というか、場に馴染んでいないという感覚がまとわりついた。彼女らと自分を見比べた時に、何かが違うと感じる。おしゃれだとか美人だとかで気後れするのとは別の、違和感が多少あった。

女性を女性と認識させるものはなんだろう。と考える。骨格。肉のつき方。指の形。象徴的なのは乳房だろうか。

私の胸は娘を生んでからほぼなだらかになった。産後の女性ホルモンの加減でそういうことが時々起こるらしい。昔はふっくらしていたけれど、膨らみがささやかになった事で随分気が楽になった。女性だと識別する要素が薄まったことで、心に女性的な成分が何となく足りていないと感じている自分の中身と、少し折り合いがついたのかもしれない。

性自認というのは、男と女の二択ではなく、どちらでもない場合や、どちらも混ざっている場合など、人の数だけタイプがあるように思う。性別の欄の「女」に丸をする。その時、私は「まぁ、どちらかと問われれば男ではないです」と内心呟く。消去法に近い。
妄想してみる。乳房と筋肉なら筋肉が欲しい。体つきで明確に性別が分けにくい方がなんとなく楽だ。なので男性器がついた体になりたいというわけでもない。ただ、ある朝目覚めた時、神様に「つけといたよ」と言われたら、別に欲しいわけではないけれど絶対無理とはならない。逆に神様が「乳房を元のサイズに戻しといたよ」と言ったなら、それは要らんなと思う。
髪を短くして丈の長いスカートを履く。それでいて感覚的にはどこにいてもいいしどこにも明確に所属しない。そのくらいの在り方でいい。

「自分は男性か女性、どちらだろう?」

という疑問文に対して、

「男性か女性のどちらと付き合いたくて、抱かれたいか抱きたいかのどっち?」

という質問を投げかける時、それは性的指向に触れている。心の性別とは関係ない問いだ。

心の性と体の性が不一致で、それゆえ苦しみを抱える人がいる。学生の制服がスカートとスラックスの両方を選べるようになったのも、その違和を少しでも薄める手立てとして、現れたものなのだろう。

女性と恋に落ちる女性もいる。男性器がついているけれど心は女性で女性を好きになる人もいる。恋をするけれど性欲を感じない人もいる。異性と同性のどちらともを愛する人もいる。
とりあえず思うのは、『好き』の矢印の向かう先が異性であっても同性であっても、大前提なのは『その人だから』ということだ。あなただから好きなのだ。誰でもいいってわけではない。

性的指向にグラデーションがかかっているのと同様に、性も、男女二つの型にはめるのが本来は難しい性質のものなのだろう。

今のところ、娘の中身が女であれ男であれ、将来のパートナーとして男性か女性か魚型宇宙人を連れて来るところまでは、心して待つ。


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