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“I love you“から始めよう。

初めて言われた「I love you」は娘からだった。

その日はいつもと別段変わらない日で、部屋で何気なく顔を合わせた時に、唐突に、

「I love you」

とだけ、言われた。

日常生活で家族へ「愛してる」と文字通りに声にする機会は特になく、文豪の夏目漱石が「月が綺麗ですね」と訳したという話もあるけれど、まして英語で言われる日が来るとは思いも寄らなかった。
彼女は「お母さんに愛を分けることを誓います!」と言い切る小学生だった。そうして、「お母さんの好きなところはおしりと足」と笑いながら、様々な愛し方を示し続けてくれた。

幼い頃、二人で延々と折り紙のやっこさんや手裏剣を折っていた。折り紙があればあるだけ使い切る勢いで、際限がなかった。ある日、娘はニコニコと笑いながら、ハート型の空色の折り紙を差し出した。中身を開くと色鉛筆で、

「だいすき。ずっといっしょにいようね」

と、書いてあった。

娘はそうして、何でもない日に、誕生日に、記念日に、小さな指で気持ちをくるむように折った手紙をくれた。メモの切れ端に、青や紫の折り紙に、一枚の白紙に、拙い文字で想いをしたためて、笑顔と共に手渡してくれた。

手紙や二人で折った折り紙は、棚の奥の平たい箱にしまった。箱の蓋には赤い花柄の包装紙が糊で貼りつけられていて、娘がお気に入りのシールやピンク色のリボンで飾り付けた。蓋の片隅には、たどたどしい字で『宝物ばこ』と小さく書いてある。彼女の持ち物を整頓していくうちに使わなくなったもので、ただ捨てるのが勿体なくて貰い受けた。

箱を開けて、手紙を一つ手に取る。表書きの『ラぶレたー』のレが鏡文字になっていた。

”おとうさんおかあさんあて
どっちもすき
だいすきここにうまれてよかった、たのしい”

中には、幼い当時のままの零れるような愛おしさが綴じられていた。

掛け値なしの真っ直ぐな『だいすき』の四文字を目でなぞると、胸がじわりと痛んだ。なんだか傷口に塩が染みるみたいだった。息をするのが少し苦しくて、ふと涙が零れる。

嬉しいのに、悲しくて寂しい。
この痛みと涙は、一体何なのか。私の中の、何の感情を礎にして生まれるのか。言葉にならないまま、涙を拭った。

娘が小さな産声を上げてこの世界に生まれ落ちたときから、今も、心に留めていることがある。

”あなたをいつでも手放せるように心積もりをしておくこと。”

やがて成長し、進路を選択する。そのときに、親の私を慮って望む道を諦めることがないように、自分で行き先を選んで欲しい。そうして、そばに居たいだけ居て、ここから離れるときには、一旦私のことは忘れて、振り返らずに行って欲しい。
眠れる場所と晩御飯を用意しておくから、帰ってきたいときにだけ思い出して、そうしたいときに帰ってくれば、それでいい。

それからもうひとつ。

想いは表現して初めて伝わるところもあるから、抱きしめて、髪を撫でて、指先で頬に微かに触れて、好きと伝えてきた。
けれど、幼い時分を振り返ると、娘が求めるほど十分に気持ちを渡せていたかは難しい。

「お父さんと私、どっちが一番好き?」

と問われたこともある。

「あなただよ」

と返して、安心を渡してあげるのが正解だろうと思いつつ、私はそうはしなかった。

「ずっと一緒にいようね」

と笑顔で言われて、

「うん」

と、心を包み込むように頷いてあげられなかった。私たちはいつか離れ離れになる。

「お父さんもあなたも、どっちもお母さんには宝物だから」

「大きくなって遠く離れても、あなたがお婆ちゃんになっても大好きだよ。心はずっと、一緒だよ」

そう答えた感情の湧く根っこは、どこか諦めに似ている。大好きという想いを貰う度に、ただ嬉しいと、真っすぐ正面から抱き止めることが出来ない。

娘は今も時折、気持ちを言葉にしてくれる。

「今はさすがに愛ってほどじゃないけどね」

「家って幸せだね。ひとりになりたいときもあるけど、ひとりじゃ寂しいときに同じ部屋に誰かいるっていいね」

その少しずつ大人びていく横顔に、自立心の芽生えと、豊かな心の成長を感じる。

私達はお互いを大切に想っていても、大好きでも、根本的に分かり合うことができない。そういうのは、人と人とが個々に心と意志を持っている以上、当たり前のことだった。なのに、いつか離れてしまうとして、一緒に笑い合っている今も、寝息を聞いている瞬間も、すでに離れるための心の準備を整えている。大好きという想いと共に、寂しさや諦めを感じてしまう。


私は、娘が愛情を渡してくれる度に、戸惑っていた。その愛の形は、私の知らないものだったから、見たことのないものを見た驚きや新鮮さ以上に、真っ直ぐな感情表現に触れて戸惑った。
更に、こちらの気持ちの渡し方もわからなかった。私は人を上手く愛せているのかがよく分からないし、私が受け取っていいものなのかどうかもよく分からない。

娘はいつも私の知らない愛し方をする。率直に「ここに生まれてきて楽しい」と言える。I love youを言える。そういう風に愛せる。

私はといえばどうだったろう。子供の頃を思い返すと、いつの頃からか、学校から帰って家のドアを開けても、まだどこにも帰り着いていない感覚があった。帰りたいという、不安に似た感情を漠然と抱えていた。

それでも、5歳の頃の私は母のことが大好きだった。寒い夜には湯たんぽ代わりになると言われながら、よくくっついて眠った。

思春期の頃は、父に私のことも好きになって欲しいと思っていた。
例えば漫画によくある話みたいに、家に帰って来ない我が子を心配して頬をひっぱたくくらい、大事に想って欲しかった。
けれど、きっと父は私が帰って来なくても、自分でどうにかする力も持たない子供が仕出かした生意気な迷惑が気に食わなくて怒るだけで、私を心配して叱ることはないだろう、と、子供心に感じていた。

その感覚は、寂しい、というよりも、寄り所がなくて足場が不安定、という感覚に近かった。

昔の記憶は所々はっきりしない。家族の誰かが入院したとか、癇癪を起こしたとか、言い争いになったといった出来事だけを覚えていて、その時、私自身の感情がどう動いたかという記憶が手元に残っていない。気持ちが輪郭を結ぶことなく消えて、そこだけ空白のようになっている。

一番古い記憶は何だろう、と思い起こす折に、ふと脳裏に浮かぶのは、木目調の天井と、吊り下げ照明の四角い枠の中で光る蛍光灯の二重の輪っかだった。蛍光灯から下がる紐が、風もないのにゆらゆら揺れている。
幼い私が泣いていて、そばにいた父に「うるさい」と怒鳴られた。驚いたのか、怖かったのか、更に声を上げて泣いていた。

散らばった欠片を集めるように思い出せるもののなかで、父との幼い頃の思い出は殆どなかった。家に居着かない人で、私が幼い頃から出たきりになることもよくあった。
時間的に接点が少ないのも、記憶に残らない理由の一つだった。自由気ままを好むひとだから、子供のいる家が窮屈だったとしても、不思議ではなかった。

道理の分からないものを好まず、泣いてばかりいる子供もまた、好きではなかったのだと思う。子供を抱き上げることも、一緒に遊ぶことも、一貫してなかった。
けれど、私は遊んで欲しかったわけではなかった。遊ぶのも、宿題の解けない問題を訊くのも、困ったときに声を掛けるのも、夜、ウトウトと眠ってしまった私を布団に運んでくれる人も、ちゃんといた。足りないものは与えて貰ってきた。だから、求めているのはそういう事ではなかった。

子供の頃から、無闇に怒る人がそこにいる。それがただ単に怖くて、日常で、当たり前だった。そうして、父は誰に対してもそうだった。

小学生の頃、夜遅くになって父が仕事から帰ってくると、私は蜘蛛の子を散らすように、今まで過ごしていたリビングから寝室へ引き上げて布団に潜った。
真夜中に目が覚めて、リビングのドアのガラス越しに室内を覗くと、父と母の二人きりで、父は煙草をふかしてウイスキーを飲んでいた。そういう姿を時々見かけた。父が煙草を吸い始めると煙で部屋が真っ白になる。母はその部屋で、酔いに任せて話す父の向かいにじっと座って話を聞いていた。それは談笑ではなく、対話とも言い切れなかった。

ごく自然に「お帰りなさい」と言って、その言葉を受け止めて「ただいま」と言う。そんな当たり前の動作さえ身構えてしまう。怒らせないように注意を払う。それが、普段から私に見えていた父と母の一つの側面だったように思う。
そうして、それは私も同じく、ただ普通に挨拶を交わす、そんな簡単なことにもどこか怯えている子供だった。

私には愛し方がわからなかった。私にとっての父は、同じ部屋にいるだけで、次の瞬間、何を言われるかもわからない、怖い人だった。だから、萎縮するだけで、どう接していいのかが分からなかった。

そういう意味では、多分、私も父を大切にはできていなかった。私は父の好きな歌を知らないし、父は私の好きな食べ物を知らない。そういう当たり前の会話を交わす時間を殆ど積み重ねてこなかった。

仲良くなりたかった。それは確かだった。けれど、何よりも私が望んだのは、少し別のことだった。
父と家族の誰か、という図式になると、相手が誰であっても、意志の疎通があまりにもうまくいかない。大切な人たちが、父に不当なことを言われたり、威圧的な振る舞いを受ける。何よりもそのことに傷ついていた。

家族という関係性の中で、自分の大切な人たちが、お互いに大切にされて欲しい。

みんな、仲良くあって欲しい。

願っていたのはただそれだけの、とても幼ない望みだった。

最近になって、父とほんの束の間、言葉を交わした。「あいつは俺を怖がっているからな」と父は言った。桜の蕾がまだ堅い季節のことだった。いのちと心が尊重されず、大切にされない。そういう気持ちが冷え込むような出来事が、昔から、そうしていまだに変わらずあった。私たちは、縮まらない距離をお互いに実感していても、埋められないまま、言葉が届かないまま、長い時間を積み重ねてきた。

かつて生活を共にした家も、もう、ただいまと言って帰る場所ではなくなった。寂しいというよりは、私物を全部取り去ったあとの空っぽの棚の中を眺めているような、気の抜けた感覚が、胸の片隅にある。

子供の頃から、家族と結ぶ愛や情とはなんだろうかと、そんなことばかり考えていた。

答えはまだ見つからないけれど、家族というのは、帰り着く場所を共に作る人たちのことを指すようなところがあるのじゃないかと思う。

鍵を回して家のドアを開ける。

「ただいま」と、自分の居場所を確かめる。

今はそこに、色んな形の愛を渡してきてくれた娘がいる。


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