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歌う友人。

友人から、時々、LINEが送られてくる。

先日も、風呂上がりにソファーでボンヤリしていたら、スマートフォンの液晶画面に通知がヒョコッと現れた。いくつかのメッセージが立て続けに送信されてきたあと、締めくくりに、

「また歌を送るから」

と、添えられた。

トークを遡ると、縦長の吹き出しに囲まれた長い文字列が続く。中身の殆どは、友人が作った替え歌の歌詞だった。

普段、LINEのやり取りをするのは会う約束をする時くらいなのだけれど、最近、歌を送ってくるようになった。曲の元ネタは、ドナドナだったり、大きなノッポの古時計だったり、アイドルの曲だったりと、様々だ。

初めて歌詞が送られてきたのは、真冬の夜のモスバーガーで向かい合わせに座ってコーヒーを飲んでいた時だった。友人はカフェオレに砂糖を入れると、

「歌を作ったから見て」

と言って、指先をスマートフォンの上でサラサラと滑らせた。私は矢継ぎ早に送られてくる文字列を追い掛けた。私が小学生男子だったなら、読み上げても大目に見てもらえるかもしれないけれど、人前で口に出すのが個人的に憚られる単語が並ぶ。
ユーモアと高尚さとくだらなさを足して三で割ったみたいな内容の歌詞は、命が巡る偉大さと不思議とを、尾籠な単語を交えて謳っていた。

「いのちが頑張ってるって感じられる瞬間」

「やがて土に還る喜びに満ち溢れている」

と、友人が歌詞について力説する。その真面目な言い回しと不真面目な歌詞との落差がおかしくて、私はケラケラと声を上げて笑った。

ユーモアのフィルターを通して友人の中から生まれる詞は、フィルターで濾される前は、全く別の形をしている。抱えているものや、大事にしているもの、傷ついたこと、心に深く根を張っていること、それらが複雑に混ざり合う。
本人いわく、「気色悪くてカワイイ癒やし」を目指して作られている詞は、元の歌詞の原型を残しつつも、友人の人生観でアレンジされており、これは才能だなと感心しながら、LINEのメッセージを受け取っている。

随分長い付き合いなるけれど、歌うようになるとは思ってもみなかった。意外な方向へ発想の舵を切るものだなと、しみじみ噛みしめている。

「人間は何度も何度も同じ事でぐるぐると延々悩み続けるものだと、厳しい修行を積んだ末に偉いお坊さんも言っていた。だから、私がこうして同じ事で悩み続けても、別にいいんだって思えた」

と、その昔、友人は言った。そうして今も、歌いながら、なにかにつけて考えている。

稀に、ユーモアのフィルターを通しそびれた詞が届く。そういう時、その詞に乗せられた感情は、ガラスの破片を更に細かく砕いたようなヒリヒリとした痛みを伴って、肋骨のあたりに残る。

もうしばらく友人は、歌い続けることだろう。

時におどけて、時に真面目に。自分の心と向き合いながら、出来た詞と伝えたい気持ちとを答え合わせするように。



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