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聞こえてくる声のこと。

取り留めもなく過ぎてゆく日々の中で、誰のものでもない声を聞くことがあった。

その時期は、家族の関係が大きく変化した時期でもあった。実家と呼ぶべき場所がなくなったり、大切な人が忽然と、身を守る術を何も持たないまま、私達の前から姿を消したりした。

不安の中で私は、自分の心の形を知りたくて、拙い文章をいくつも書いた。自分の中の何に対して嫌悪感を抱いているのか。家族という言葉に紐づくもののうち、大切にしているものは何か。日々、何を悲しいと感じていて、いつも胸の奥底にある消えたいという言葉が、何を理由にして生まれて、何故まだそこにあるのか。そうしたことを知りたくて、海辺の砂をかき分けて探しものをするみたいに、文章を書いた。

頭の中で聞く声は、二つあった。ひとりは男性で、もうひとりは女性で、どちらも架空の人だった。今までどこかで出会った誰かに似ているわけでもない。姿があるのかといえば、どんな髪型で背丈はどれくらいで、どういう性格なのか、年齢はいくつなのかというイメージはある。短髪で背の高い男性と、長髪で背の低い女性で、年齢は二十代後半、背筋が伸びていて、肩の力が程よく抜けていて、物腰が落ち着いている。

二つの声が会話をする時もたまにあったけれど、声の大半は私に向けられていた。

どうしようもなく悲しい時、心の中で苦しいと呟くと、頭の中で女性の声がパッとひらめいて、どうしたいのと囁いた。私がその言葉に対して独り言のように、わからないと呟くと、また別の言葉を掛けてくる。それを繰り返すうちに、辛さと、悔しさと、悲しみが入り混じった感情が、真っ白に煙っていた霧が一瞬にしてサアッと晴れるみたいに掻き消えて、心の重石が取り除かれたように、気分がフワリと軽くなった。問題は何一つ解決していないのに、気持ちだけが軽くなる。それは、例えばお酒を一杯引っ掛けてほろ酔いになった時の心地に似ていた。そういう風にして、私の中には度々、気分の高低差が生まれていた。

その一方で、感情表現は乏しくて、笑うことも怒ることも得意ではなかった。心が削られていく日々の中で、時折、私の気持ちを代弁するかのように、笑ったり、怒ったり、軽口を叩く男性の声が、頭の中に不意に差し込まれる事があった。

二つの声は、私が塞ぎ込んでいたり、余裕をなくしているときに、私に欠けているものを補うようにして聞こえてきた。二人は常に軽く笑っていて、余裕綽々で、焦るという概念が念頭になかった。

私は、強くなりたかった。

悲しいとかつらいとか、自分にとって、俯いて立ち止まりたくなる気持ちを生む出来事を、全部笑って超えたかった。

そして、私は、ただ悔しかった。

私達はもっと早くに決別するか、関係を更に悪化させてでも言いたいことを言い合うかするべきだった。そのどちらもできないまま、或いは、しないまま、時間だけが経過して、状況は緩やかに、そして確実に、悪くなっていった。それがどうしようもなく、悔しかった。
そうして、どうにも変えがたい現状に立ち尽くして悲しくなってしまう自分の弱さを救えるくらい、自分で自分のヒーローになれるくらい、強くなりたかった。頭の中で頻繁に声を聞いたのは、迷子になりそうな自分をどうにか見失わないようにという想いを抱えている時期だった。

もう出来ることはない、もうだめだと諦めて、立ち止まりたがる私を動かしていたのも、悔しさだった。良くなる道はどこかにあるはずだと、願うように思った。今まで何に傷ついてきたのかを振り返って確かめながら、今は何を望んでいるのかを探した。諦めながらも、まだどこかで家族というつながりを信じたかったのかも知れない。

だから、父の放った言葉は私に深く突き刺さった。

桜の蕾がまだ固く、春を待ちわびている季節のことだったのを、なんとなく覚えている。私に向けられた言葉ではなく、「お前の口から伝えてやってくれ」と、託された言葉だった。託そうとするその無責任さも含めて、深く、深く、心に残った。

今の私には、悔しいという気持ちが欠けている。代わりに、胸の真ん中辺りに、ぼんやりとしたモヤモヤとした黒いわだかまりがあって、時折、なんとなく、チクリとするような、息苦しいような感覚が一瞬生まれる。

二つの声を聞くことも殆どない。今は見えなくなっていて、この先、心が大きくかしぐ出来事が起きた時に、もしかすると聞こえるのかもしれないという予感めいたものが、頭の隅にかすかに残っている。

自分のために何を書くべきなのか、今はまだ定まらない。だから、わからないなりに、たまには自分の足跡を振り返って、書き留めてもいいんじゃないかと思いながら、こうして文字を並べている。

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