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「対話を学ぶ場であること」を真ん中に

はじめに

2018年からの5年間、「何とかしたい病」に憑りつかれた私は、さまざまなコミュニティに参加したり、どんな方法があると「何とか出来るのか」と探す日々が続きました。講座を受講したり、本を読んだり、インターネット検索したり、YouTube動画をみたり・・・なにがあるといいのか、どんな場を創るといいのか体験し続けていました。おかげさまでこの世の中に「何とかしたい」人や組織がたくさんあることに気がついて希望を持つことができました。今回の記事は、コミュニティカンパニーをどういう場にしたいのかについて書いてみたいと思います。

「対話が足りない」から問題が解決しない

これまでの人生を振り返ると、権力に屈するフリをするして、それを上手く利用すると幸せな人生が送れるようだと理解していました。おかげさまで、組織のなかでどのように動くと自分自身の主張が通るかを考える感覚が研ぎ澄まされていきました。私自身は幸せな人生を自分の力で勝ち取っていくことができていると思っていましたので、他者にも後輩にも「上手く生きる方法」を伝えることが私の役割だと本気で思っていたんです。

でも一向に他者の課題は解決しそうになく、権力のある人に物申すのが私の役割なのかと思って行動していたこともあります。それでも他者の幸せには届きません。そのうち自分の子ども達が学校に行けなくなり、社会全体を見渡しても「上手く生きていける人」は幸せなのか?という疑問も湧いてきました。

戦争のない平和な世の中を望んでいます。
困っている人が気軽に「困ってる」と言える環境にあることが理想です。
失敗した人を責めずに、赦しあうことができたらいいなぁと願います。
あの人は○○だとレッテルを張らずに、丸ごと尊重し合う社会が憧れです。

どうしたらこんな社会を残せるのだろうと探していたのですが・・・それには「対話」を繰り返していくしかないなぁというのが私の結論です。しかも、対話実践練習を繰り返していくしかないんだなぁと体験させていただいたおかげで、確証に近い実感が持てています。

議論・論破・会話・お喋り・ディベート・・・

人と人が言葉を交わす行為に対して、いろんな日本語で表現されるのですが、私は「対話」という言葉がお気に入りです。互いの間の尊敬や尊重が感じらるようで、そこに一定の線引きがあるようで・・・心地いい時間を過ごせたときに「いい対話だったなぁ」と思えます。運命共同体である家族間では一定の線引きが難しいので、私が受け取っている対話は成立しないのかもしれません。「対話」というあらたまったテーブルにつかない限りは難しい行為なのではないかなぁと感じています。

私が受け取っている「対話」とは・・・
自分の内側にある大切にしたい価値観を確認しながら、相手とそれを交換する作業なのだと思ってます。自分の大切にしたい価値観を眺めてみたり、それを言葉にして相手の前にそっと差し出してみると、差し出された相手から応答がある。相手も、自分の内側にあるフィルターを通してそれを感じてみて、恐る恐る言葉にして相手の前に出してみる、という繊細な行為の繰り返しなのではないかと思っています。

日常にあるありふれた出来事を、「対話」という繊細な行為の繰り返しのなかで感じてみると、新たな発見や新しい活力が湧いてくる経験ができます。
その時間がなんとも嬉しくて楽しくて幸せなんです。

自分自身の新たな発見が楽しくてしょうがありません。

対話を学ぶ

村岡康弘さんと西岡望さんが実践されている「話す聴くを学ぶ場」の体験、オープンダイアローグの場、YeLLの実践を通して感じているのは、「対話は一朝一夕に身につけられない」ということです。でも実践とフィードバックを繰り返すことで確実に家族間のお喋りにも生きてきています。家族間ではつい反応的に怒ったりぶつかったり、言葉を投げつけることがありますが、そんな時に「私はなにを大切にされてないと感じていたのか」振り返れるようになりました。

私が創っていきたいコミュニティカンパニーでは、見ず知らずの人とでも「対話を学ぶ仲間である」ということを真ん中に置いた時間を過ごせるようにしたいです。対話のテーマはなんでもいいと思ってます。本や映画をきっかけにしてもいいし、政治的な関心でも社会課題でも・・・。大切なのは自分自身を見つめ続けることと、他者の内面を想像することであって、そこに集中すれば、誰かを責めたり正解を探したりせずに、「対話を学んでいる」あり方でいられるのではないかなぁと思います。

学ぶことには、対話の練習をする時間と、フィードバックをし合う時間のどちらも必要だと感じているので、そこはセットで大切にしたいです。

違和感は宝物であるという共通了解

お喋りしていると、「愚痴ばかりでごめんなさい」「私がもっとしっかりしていれば・・」「○○ということはわかっているのですが出来なくて」など自分自身を卑下したり責めている方々の発言を聴くことがあります。人を責めるのではなく、自分の感情をコントロールしましょう!!ってなんとなく思ってる人が多いのではないかという印象です。

困り事やお願いごとを権力者に伝えてみると、「モンスター○○」ということばで一括りにされたり、自分が他者をそう呼んだりした経験はありませんか?困り事やお願い事を伝えたいだけなのに、「あのひとはいつも文句を言ってくる!!」とレッテルを貼ることがあるのではないでしょうか?そうなると、だれにも何にも伝えることができなくなる社会になりますよね。

だから、「伝え方」「話し方」を工夫するか、世の中ってこういうもんだよねと諦めるかしか方法がない人もいらっしゃるのではないでしょうか?社会のなかに「違和感(その人が大切にしたい価値観)を伝えてくれることこそが社会をいい方向に進ませるために必要なのだ」ということが浸透していくといいなぁと願っています。

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