なぜ今哲学なのか。

大学三年の秋学期、急に西洋哲学に傾いた。本業の儒学についての勉強はほとんどしなくなった。もちろん経書の筆写をする時間もあまり確保していない。なぜ、そこまでして急激に西洋哲学に目を向けたのか。自分でも忘れない為にここに記す。

そもそも儒学の勉強を始めたのは、善い人間になりたいという願望があったからだ。そして大学一年の終わりに『論語』と出会って、儒学こそがその願望に応えてくれるという確信を持った。この確信は今でも変わらない。だが、最近一つの疑問が湧いた。「なぜ善い人になりたいのか?」儒学を学び、実践していけば、恐らくは善い人、聖人とは言わないまでも、その位には恐らくなれるだろう。だが、善さを希求する根拠が無い。善い人でいる方が、悪い人でいるよりも、非難されることが少なくて生きてて辛くない。それは確かにそうだ。だが、これだと弱い。向こう十年、二十年経った時に、何で自分は儒学を学んでいるのか、何で善い人でいたいのか、この疑問への答えが欲しいと思った。そして更にこの疑問を進めていけば、「人間は善であるべきだ」というある種普遍的な論を構築できるのではないか、そう思った。ただ、この最後の段階に至ったのは、世情の悪化・哀しみの氾濫が容易に見て取れることにも起因している。

さて、疑問に答える為には、まず「善さ」と「人間」を規定する必要がある。だが、残念な事に儒学の中にその答えはおそらく無い。もちろん在るには在るだろうが、それはあくまでも儒学の枠組みの中での解答であって、古今東西を貫く普遍的な解答ではない。むしろ、その答えを提供できるのは、ギリシアより始まる西洋の哲学だろう。(プラトンとかアリストテレスも徳が何たるかを論じていることは知っていた)そう思ったからこそ、まずギリシア哲学へと目を向けた。「善さ」に対する規定はここでもしかすると得られるかもしれない。今はまだわからないが、少なくても何かしら見えるものはあるだろう。だが、「人間」の規定、そして「人間と社会の関係」に対する解答は、おそらくもう少し広く見ていかないと得られないだろう。この「関係」というのは、人間の「善さ」というものが、社会との関わりの中で問われるものだという意識があるから求めるものに加えている(その意味で社会倫理学の授業は参考になる)。そしてこの「関係」を規定するには、自己と社会(世界)がどういう位置付けにあるのか、更に自己を内面に捉える自己の観点が必要だと思った。客観的に自己を捉えられる最も自分に近いものは、内なる自己であるから。ここまで来ると、認識論(現象学か?)が近いのではないかと思い、最近はこの分野への関心が高まっている(この感触に辿り着いたのは、現象学とアレント読書会のお陰な気もする)。

こういうわけで、自分は今西洋の哲学にかなりの時間と労力を割いている。上記の疑問に解答を提出できれば、根本的な理論は構築でき、あとは儒学に基づいて実践すれば良い、そう思うから。自分は文献学者で居たくない、一人の人間として常に思考する哲学者でいたい。ずっとそう思っている。
自分の考えが正しいのか、受け入れられのかは、自分が考えることではない。歴史がその是非の答えを出してくれる。

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