拝啓、ともだち

ひよっこは、ずっと投げやりな人生でした。

高校生で不登校になった時、毎日毎日、死んでしまう他ないと思っていました。生きる気力も湧かない、生きる努力をしたってつらい、しんどい、それに見合う未来なんて来るかわからない。学校に行きたくない、外に出たくない、お風呂も面倒だ、それでもまだ生きている。みっともなく生にしがみついてる。包丁を握っても、窓から身を乗り出しても、ただただ震えて泣きじゃくるだけ。死ぬことさえ決断できない。痛みが、苦しみが、怖くて怖くて、煩わしくて、そして怯えて、斜に構えて。負の感情を行ったり来たりの毎日でした。

そんな日常の中でも、少しだけ前を向ける瞬間があったりもしました。母と話した時。数少ない、信頼できる先生と話した時。「こんな自分を受け入れてくれる人がいる。自分の思い描く姿やステップじゃなくとも、今の自分を認めて、少しずつ進んでいければいい。」でも、その瞬間こそが、諸刃の剣だった。

信頼してくれているのに、頑張りたいと思えたはずなのに。またひよっこは学校に行けない。努力ができない。すぐに疲れて、涙が込み上げる。悲劇のヒロインに陶酔する自分に辟易する。それは、前を向くからこそ鮮やかに描き出される死への感度。やっぱり、生きていても仕方がない。そんな思考のループの中で、日々を惰性で過ごし、卒業を迎えました。

大学に入学しても、惰性の日々は慣性の法則にのっとって進んでいきました。なにがなんだか分からないまま、流されるままに、ココにいる。「困ったら死んでしまえばいい。」そんな死生観で、いま生きていることへの正当化を図るような。

「生きているだけで丸儲け」「生きてるだけで君は宝物さ」

嘘つけよって。「死ねって言えないから生かしてやってるけど、お前らを救済する(幸せにする)ためにコストをかけるのはもったいない。」社会の“お荷物”への態度は日に日に薫ってくる。それがビジネスであり、いまの資本主義が蔓延る世界を支える考え方の本音ではないのか。

わかる。わかるよ。やってらんねえよな。こちとら好きで生まれ堕ちたわけじゃないもんな。

先日、志村けんさんが亡くなられました。ひよっこは、ドリフが大好きだった。話したことも、会ったこともない志村さんの死。それはそれだけでは、あまり意味を持たない、ただのひとつの死でした。スッキリで、春菜ちゃんが泣いていました。Twitterで“フェミニズム”が、死んでもセクハラの事実は変わらないと言っていました。天才志村どうぶつ園で相葉くんが、まみちゃんが泣いていました。ひよっこは、さびしくて泣きました。

すごく、クサイハナシをします。今までひよっこの世界にはひよっこしかいなかった。もちろん、母も信頼できる先生も、他にもいろんな人がいたけれど、その人たちに対して自分がどう思うのか、そればかり考えていました。自分が、つらい。自分が、苦しい。自分が、頑張れない。自分は、生きていても価値のないにんげんだ。ぜんぶ、自分中心の世界で生きていました。でも今回、志村さんが亡くなられて、ひよっこはさびしかった。

ひよっこが死んだら、周りの人はどう思うだろう。

人が死ぬ。その事実だけ切り取れば、人が死ぬということだけ。(小泉構文)だけど、人が死ぬということに対して、感情が揺さぶられる人は絶対にいます。ひよっこは有名人でもなければ、人付き合いも下手だから、志村さんみたいな影響力はないけれど、それでも、ひよっこが死んだらどうなるだろう。お父さん、お母さん、妹に寂しい思いをさせるのかな。思い上がりかもしれない。でも、ひよっこと関わった瞬間の記憶がふわっとよぎって、じんわりと寂しく想わせてしまうかもしれない。もしかしたら、そんなことを感じてくれる友達だって、いるかもしれない。

こんなに寂しい気持ちを味わって欲しくない。死ぬわけにはいかない。まだ、まだ。

ひよっこはふとそんなことを思いました。

生きてるだけで丸儲け、生きてるだけで君は宝物さ、そんなことは思わないです。生きれば生きるほどつらいかもしれない。それでも、ひよっこはきみが死んでしまったらかなしいよ、さびしいよ。無責任だけど、きみを救ってあげられるスキルも自信もないけれど、それでもきみが死んでしまったら、涙が出てしまうと思う。日常の中できみを思い出して、あんなことを話したな、あんなことしたなって。もう二度とできないのか、って。泣いてしまうと思うんだ。

前を向け、とか、頑張って、とか。ひよっこもできてないから、なかなか言えない。でも、生きることを諦めるにはまだ早いよ。幸せを諦めるにはまだ早いよ。生きてる限り、諦めるのはまだ早いよ。認めてくれないやつらに負けじと、そう叫ぶから、きみが少しでも元気を出してくれたらいいなと、ひよっこは思う。

敬具



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