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五感が鋭くなる、というのはいい得て妙

はじめに
私は深く潜った時気持ちを落とすことなく、いつもは感じられない部分がダイレクトに感じられる事実に興奮し、声か文字かで残そうとしてしまう。今回の状態を経て気付いた点の話を書き起こすことにした。注釈としては、これは完全に私の感覚的なものなので絶対に正しい訳ではない。

たまに、瞑想をする。脳を一度リセットする時、心を空っぽにしたい時、何かについて考えたい時、などだ。普段から2人分後ろにいて言動全てを司る“演出家の私”に“芯の私”が近寄ることができるよい手段となっている。今回はいつもより深く潜ったことで新しい気付きがあったので、その時に残したメモを読みながらまとめてみようと思う。ちなみに意識がしっかりしていてかなり受け取りやすいメモを書いた、昨日の自分を褒めたい。

以下、メモを清書したもの

人間は様々な感覚器官の受け取った刺激が中枢神経系に伝えられ、それを“感覚”として認知するのだとされている。だがある程度潜った時にだけ、特例でそのプロセス全てを体感できるのだ。味/触/視/嗅/聴覚全て、つまり五感において。これがよく“五感が鋭くなる”と言われる所以ではないか、と考える。

まず第一段階で感じたのは、細胞一つから一番大きな自分まで、その全てに自我が散っているような感覚。すべてに対して感じそれが選別されることなくダイレクトに思考へ繋がるので、いつも以上のあらゆることを絶えず考えることになる。その分時間の捉え方もゆっくりになる。そのことに気が付いたところで実験として、現在時刻(11:50だった)から10分たったと思ったら携帯を見ることにした。日付の変わり目だから覚えやすいし。少しすると思ったことを書き留めたくなり“まだだよなあ”と考えながら携帯を開くと11:58。惜しい、でも意識すればまあまあ精度に変動はないということが分かった。むしろいつもよりしっかりしているのか?あとは、全ての細胞が内部全体から押して体を維持しているのだなあ…と感じる。

次に味覚の話。これが一番壮大であった。まずは目の前にあった麦チョコ。いつもは気付けない奥の塩味が最後にしっかりと確認される。食道に流れていくというよりはむしろ一度喉を経由して口に意識が戻ったところでそれが消えていく。あの真ん中(チョコの甘みとシュワっとした麦の食感の間)で感じられる少しガリっとしたものはあれか、麦の外皮か。ひとつひとつを丁寧に感じているのだ。次にたらこスパゲッティを一口食べる。先ほど色々考えたものを一旦無視してもいいくらい大きな“これは美味しいものだよ!”という指摘を受け取る。何を食べてもいつもより舌と食物の間隔があり、これが味蕾のような、味を感じる器官なのではないだろうか。少し前に書いた“自我“が舌の上の草原のような空間にも立っていて、食物が舌の上の層にぶつかる様を余すことなく監視し迅速に情報伝達をしている。喉を通る水、水だけは、確かな冷覚をもってしっかり横隔膜の上の膜を弛ませながら通ってくるよ、胃の前に消えていくことに変わりはないけれど。

味覚から派生して食、そこから気付いた体内の話。空腹感がなく、満腹感もない。首から足の付け根までの空間にツルっとした外皮しか認識できないからである。そこは基本的に物体が存在不可能で、何かを食べたらどこかの端からすっと消えていく。鼻と喉の窪みに少しの感覚を残して、消えていく。胃の圧迫感も全部後よ~と言われている気分になった。何かを口に入れてもあまり作用しないから食べなくてもいいのだけれど、こんなに“美味しい”を感じられるなら色々食べておきたいな…と貧乏性が出た。多分食べすぎたら太るので実行はしなかったが。癖で左側だけを使って咀嚼することが多いことも初めて知った。

匂いが脳に届く量もいつもより確実に多いな、もちろん全てのプロセスを感じているからでしかないと思うのだけれども。その流れが見える、という方が正しいのかもしれない。いつもの芯の部分だけでなく小さな自我も同じ事象を感じているわけだから相対的に仕方のないことなのかもしれない。何かを体内に入れるの、結局どれも喉と鼻の窪みに残るからどちらからでもいいのだけれども、直接的で強いのは鼻らしいからそちらから吸って吐く。

触覚、これは一番嬉しい気付きがあったかもしれない。たまにある自分が板になったような感覚で、それが…気持ち悪いんだ…と、要領を得ない言い方しかできなかった事象が、ようやく文字に起こせる。自分のすべてが椅子のような構造の板になってそれがギシギシと揺れる。その板の節全てを冷覚として、氷がちな雪の上を行ったり来たりし、その冷覚に対して違和のようなものを覚えるのだ。普段は冷覚だけになることがないから。ふと掴んだような気になっていた“白いシルクの布の上を”というものは、かなり間違っていたのだな。エアコンの冷風もあたたか~い皮膚(表皮?)の上を滑っていった。その他の感覚全てが“絶対にこうだ”と上から決めるので、それを“触覚”という新兵が脳に最後伝えてくれていたのだな、触覚が新兵だということは全く知らなかった。

聴覚に関する考え方にも変化がある。これは遠いな、とにかく。だって表皮の一番外側から染み込むのだもの。色が見えるなどは前からあるけれど、音は塊ですね、つるんとした真ん丸の。その音を表皮から取り込んで、空の体内に響いたものを知覚するというプロセス。物は言いようだが、文字を読む際や言葉を聞き取る際に頭の中で再生してから反芻するあの感覚に近いものである気がする。色々な言語の文字と読み方がいくつかふと浮かんだ。合ってはいなかったけれど。赤という文字は中国語では“シィエ(あまり明確にカタカナで再現できないがおおむねこのような響き)”と読むのかなあ…などと考えていた。“化”という漢字の偏旁の間に漢字を入れると四字熟語ができて、それが人を称える勲章の名になったのだという妄想もふと浮かぶ。

視覚だけはあまり変わりなかったな。いつもよりコントラストが少し落ちて輪郭が曖昧になるくらい。大方脳に元々近いからなのでしょうが。

あと、微動だにしない方法も見つけた。普段は筋肉の引き攣りなどで無意識に動いてしまうが、今は自分を空間に串刺しで固定し、支配し、指令を出せばいいだけである。“動かすな”、と。目蓋を閉じてもいつものいつでも眠れる感覚はない、きっとこの状態が現なのかも怪しいところだから。いやむしろ閉じると門という新しい感覚と出会える。メモには“醒めた後の自分が見るだろうから一応イメージを書いておくと”という前書きと共に“目蓋が下りるのはもののけ姫に出てくるたたら場の門のようなものが閉まった状態”と表記がある。ここでは“他人意識、あるのか”という突っ込みが生まれるが、さらに面白いのはこれもメモに書いてあったという点である。

総括としては、深く潜った時、全ての感覚や細胞に自我が張り巡らされ、それをダイレクトに全て感じることで感覚の増幅(普段との比較でしかないが)が起こる。私のよく使う言い回し、“2人分後ろから見ている演出家の私”。その真隣に立っていつもの工程を見せてもらったような感覚であり、そのプロセス全てを知ることこそが、“五感が鋭くなる”との表現で共通認識とされているのかもしれない。想像していたよりも鮮明に覚えているのだが同じ所まで再度潜ることはできるのだろうか。

P.S.うんにゃりする、これはリラックスしながら横たわり丸まることであるらしい、昨日の私に言わせると。

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