ファーストキス

駅から続く商店街を抜けて、ニューヨークにありそうなお洒落なカフェを右に向かう。
そこから空まで緩やかに続く坂道を登って行くと左脇に小さな花屋さんがある。
いつも色とりどりの花がためらいなく咲き誇っている。ここの花はとても鮮やかで芳しい。そして、不思議と長持ちする。

そんな花屋さんを通り越してちょうど100歩目でたどり着くのがわたしの住んでいるアパルト。
アパートでもマンションでもなくアパルト。見事な蔦でおおわれたアーチの門には「ガーデンアパルト」と書かれている。
古い外国映画から飛び出してきたような品のいいお婆さんがここのオーナーで、入居条件は通りに面した出窓に何かしら植物を置いて育てること。
この風変わりな入居条件と中庭に置かれたピアノ。外観も含めよく考えるとすべてがどこか現実離れしている。それでも優しい陽射しが降り注ぎ、柔らかい時間がゆっくりと流れているこのアパルトに一目惚れして引っ越してきてしまった。

それまで植物を育てたこともなく、とにかく入居条件を満たすためだけに育てやすい、枯れない植物を求めてあの花屋さんに飛び込んだ。
「なんでもいいから、育てやすい植物をください」と言うわたしに店主は「うちのはみんな個性的でして…」と申し訳なさそうに頭をかいた。
「あっ、その、何て言うか…すぐそこのアパルトに越してきまして、今まで育てたこととかなくて…」わたしはなんだかとても失礼なことを言ってしまったような、恥ずかしさが込み上げてしどろもどろになってしまった。
「あっ、アパルトの人でしたか。僕もあそこに住んでるんですよ。それなら、あなたには…」眼鏡の奥の優しい微笑みに一瞬、時間が止まったような幸福をわたしは感じてしまった。それまでの恥ずかしさなど吹き飛び、心音がコトン、コトンと大きく脈打ってしまった。きっと、頬は高揚して紅く染まっていたにちがいない。

「土が乾いたらお水をあげてください。こうみえて、可愛らしい花も咲きますから」棒立ちのわたしの手に載せられたのは小さなサボテンだった。花屋さんの手がわたしの手に触れていた。

その日から、わたしはサボテンと心に咲いた想いを育てている。
この想いを中庭のピアノで奏でたいのに、そうすれば、きっと花屋さんにも届くのに…。
帰り道、いつものように花を買う。そして、今日もまた言えなかった。後悔なのか寂しさが押し寄せる。

「また、雨ですね。これ、どうぞ」差し出された傘をそっと受けとる。
「ありがとうございます」と気づかれないように花屋さんの手に触れてみる。
「幸せですね」そう言って離れようとした指先が花屋さんの手のひらに戻されていく。
雨音が優しく心音を隠すように歌を作っていく。
「僕は好きですよ」
「はい。わたしもです」
繋いだ手を離さないよう静かに降る雨の中、それはゆっくりとはじまった。
花びらで弾かれた滴はとてもキラキラとしていてまるでそれは星空でするキスのようだった。


clubhouseで朗読された作品です。

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