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伝統から破壊へ 破壊からモダンへ モダンから混沌へ 混沌から無知へ 無知から情動へ だから今を生きる

今回は、思いつくままに書こうと思います。仕事の拘束時間が長くなったけど、オフの日々をゆるりと過せるようになりそうです。

このところ江戸時代がうらやましい、ひょうこさんです。長いこと価値観が変わらない世の中で生活するという事に少しの安堵を手に入れたい。何も考えずにいたい。250年も平和が続いた国なんてそうそうないからね。

最近感じてるのだけど、『日本の作家』ってなんだろうね?って事。純粋な日本の作家は、江戸時代で終わったのだろうと、ここんとこ強く感じてます。

小学校の時、『南総里見八犬伝』を読んで感激した私。馬琴は、江戸時代の作家です。皆が大好きな少年漫画ジャンプの源流がここに詰まってます。『友情・努力・勝利』鬼滅の刃も『南総里見八犬伝』がなければ、生まれなかった。

馬琴は、日本人皆がみたいものを見せた作家。『義理・人情・宿命』は、江戸時代からのエンタメです。いつしかそれが、『友情・努力・勝利』へと変わり、私たちのエンタメの一部となりました。

そんなエンタメに心を馳せ、日々をやり過ごしてるのですから、まあ、今もそんなに変わらないのかな。ただ、いつの時代も人々は、そんな人生を夢見るのだと思います。

明治以降の息苦しさを考えた時、きっと今とそんなに変わらなかったのだろう、と感じてます。

どうして明治以降が息苦しいと考えるのか。日本人の明治以降の作品で楽しい作品があまりない。江戸時代だと、『狂言・歌舞伎・落語』があるのだけど、明治以降の日本人作家で、おもしろ楽しいのってある?美術でも文学でも。とくに文学は見かけない。今なら映画になるのかな。

江戸時代は庶民が時間をたっぷり使えたから、文化も花開いたのだと思う。今や日本人は、食べていくのに必死。作品も自分のためだけの作品をよく見かける。そもそも、これまでの時代背景を軸にした作品はほとんど見かけなくなった。

明治以降の個人主義的作品から抜け出すには、どうしたらよいだろう。現代人はいまでもそれと戦っている。(そんな中チームラボが一つの方向性を打ち出している)

着地点はどこだろう。

夏目漱石は、分からない不安に悩まされた。

三島由紀夫はサムライになろうとした。

遠藤周作は、合わない服を着させられた感覚だと言った。でも脱がずに和服のような洋服も捨てなかった。

そして私たちは、その洋服を今も着ている。なにも知らない顔をして。

生活が苦しくなると、文化を考えなくなる。でも文化を考えなくなると、自分がグラグラする。

なぜなら、私が育った町の商店街・観光地で生活する事は、すでにファンタジーで、その故郷はもうドコにもない。辛うじて面影があるだけだ。

みんな糸が切れた凧のようにフワフワ浮いてる。

フワフワした凧は、強い煽動の風が吹くと流される。知らないで流されるのと、知って流されるのでは大違いだ。

この蔓延する利己的な個人主義の世界にやってきたコロナや経済はどこへ着地点を見つけるのだろう。

日本の学校のシステムは、とうの昔に限界が来てたのに無視しつづけた、その結果にやっと向き合う時が今きた。

そして、そのシステムを安易に会社が真似をして取り込み続け、ずっと変えなかった。

一つの方法で全てを網羅する事は出来ないのに、それを安易に受け入れ続け、他を無視してきた事。

私たちは、そんな世界で生活してる。変わる事を迫られてる。

………難しい話だなぁ

さてさて、今日も生きるぞ☆

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