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しょくざい。

罪は無いと言われて心底安堵した2015年。あれからわたしは癒しの道に入りました。

それまでも同じようなことはしていましたが、「自分を癒やしたい」と感じたのは始めてでした。

罪は無いと聞いて安堵したのに、わたしはそれから楯突きはじめました。

罪が無いっていうならあれはどうなの?これはどういうこと?わたしが今までやってきたことは間違いだったの?
そんな問いから今度は自我の世界を探求し始めました。
自我の世界の本を読んだり、ワークに参加して健全な自我を育て直しました。

その時の話は端折りますが、
ふと思い出したことを今日書きます。

当時のわたしはもう心身共にヘトヘトだったので、「罪は無い」ことにただただ涙が溢れて安堵してそれを受け入れました。真理として本当に。

ですが、真理にやすらぐも、それをこの世的に生きているわたしはわかりませんでした。

罪悪感を持つことは償いでしたから、罪は無い=償う必要があることは、はじめから無かった。
となると、どうして良いのかわからないだけでなく、
親にも言えない悪いことをしているわたしが許されてはいけないし、許されることじゃない、こんなダメなわたしを受け入れないで。そんな気持ちでした。

わたしは受け入れられ、許されてもどうにも救われなかったことを思い出したのです。

心の奥では怒られ、ののしられ、裁かれることを望んでました。

そう、
そうされることは当然の罰で、その方が楽だし、裁かれ罪悪感を持つこと、償うことでいい人間になれる気がしていたのです。

ですから
自分を責めること、相手を責めないこと、自分が荷物をもつことはわたしの美徳で、わたしの美徳に意味がないとは言わないでほしい。

そんな叫びと共に「そうだったんだ」と静かに認めた時、その場にひれ伏しました。

許されることと許されたくないことの間で引き合って身をちぎる思いで自分が狂いそうだったことを、思い出したのです。

わたしはひれ伏しながら
ただただ泣き浄化しました。

もう人のせいは終わりだ。
償いながらも対象物がある世界は楽でした。
償いという美徳。
自分を傷つけ、自分を責めることで生き延びたことを労い讃えました。

償いが不要で罪から解放されたら困るんだなと、ひとしきり感じたあと、本当の世界の意味がわかりました。
わたしに罪はなかったんだ。
最初の最初の世界を感じました。
わたしは自分が立ちあがり始めたのです。

優しい世界を歩きはじめていたわたしにとって、
自分を傷つけ、自分を責めてほしいわたしがいたことを思い出したのはとても良かったです。
思い出せない位になったこともよいけれで、思い出せたのは良かった。

そこを経て今だったんだ。

それは深みともいうかもしれません。


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