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柝が鳴る~蔦重と写楽~⑩

 第10話
 蛸唐草紋の猪口が長火鉢の隅に当たり、畳の上に転がった。飲みかけの酒が四方に飛び散っている。
「いってえ、どうしたんだ、もう一杯、注ぎ直そうじゃねえか」
「いや、やめとこう。どうも近頃、飲む気がしねんだ」
 蔦重は愛用の猪口を長火鉢の上に拾い上げ、お藤の差し出した台拭きで畳を拭った。
「どっか具合でも悪いんじゃねえのか。顔色もさえねえし、両目の下には隈が出てるじゃねえか」
「心配ねえ。ちっと疲れが出てるだけだ」 
「蔦よ、お前さんももう40半ばだ。躰は労わってやんねえと」
「躰は心配ねえが、どうにもうまくいかなくてな」
「そうみてえだな、役者絵のことだろ」
 蔦重は両腕を組み、溜息をついた。
 顔見世興行に合わせた蔦重の勝負は惨憺たる結果に終わった。
 低価格路線を踏襲した立ち姿の細版47図、新機軸として打ち出した大首絵の間版11図など総じて精彩を欠き、庶民の心をとらえることはできなかった。助っ人の鉄藏は細版の背景に紅葉や手元に小道具類を描き加えるなどしたが、元より他人名義の錦絵に力を入れようがない。多作が祟り、なにより写楽の創作意欲が減退。売れ筋の細版の立ち姿を仕上げるのに精一杯で、間版の大首絵は鉄藏に委ねざるを得なかった。
「何時だったか、内儀から言われたな、『信念を曲げんな』と」
「大首絵で写楽を売り出した後だろう。話題にゃなったが、売れ行きが伸びねえ。座元や役者連中に怒鳴り込まれたって愚痴ってよ。それでも役者絵で引くわきゃいかねえって言い張っていたからな」
「役者絵から手を引くつもりはねえが」
「また写楽を使ってか」
「他に誰がいる。俺には写楽しかいねえ」
「そんだけ惚れ込んでんなら、なんで写楽を信じてやんなかった。歌麿に言われただろうよ、何で大首絵を究めさせねえ、と」
「そりゃ、事情があったんだ……」
「事情、いい加減にしねえか。言わせてもらうよ、そろそろ、気が付きねえ、写楽の役者絵は空回りしてんだよ。信念は曲がってねえと言い張っちゃいるが、そもそもその信念とやらが手前勝手過ぎるんじゃねえのか。写楽しかいねえと論っておきながら、ただ、こき使っているだけじゃねえのか」
 お藤の手厳しい一言一言が錐を揉みこまれるように彼の胸の内に突き刺さった。鋭い刃先に戦き、信念の核心の自覚を迫られる。老舗の地本問屋を相手に、押しも押されぬ版元になり上がった原動力は何だ。戯作者や町絵師の卵を掘り起こし、手塩をかけて育て上げたからじゃなかったか。 
「あれ、蔦重の旦那じゃごぜいんせんか。よくお出でくんなましんした」
 内所の障子を開けて、花魁の勝間が妖艶な姿を見せた。
「そうだ勝間、蔦重の旦那にもきちんと挨拶しておいで」
「改まって挨拶とは一体、何事だい」
「いやね、勝間の身請け話がまとまったんで」
「本当かい、そりゃ目出てえ。それで吉原一の花魁を身請けするとは誰なんだ」
「日本橋の両替商、伏見屋の旦那がわっちを身請けしてくれることになりまして」
「何だって、伏見屋の旦那って……」
 蔦重は絶句した。伏見屋の当主は勝間が長く袖にしてきた男だった。
 勝間は恭しく頭を下げると、内所を後にした。
「伏見屋は勝間が嫌ってた男じゃねえか。よりによってあの男が身請けするとはどういう風の吹き廻しだ」
「越後の父親がまた博打に狂って、その借金を勝間にしこたま上乗せしたのさ。このままじゃ年季明けもままならねえと、勝間も観念したしだいだ。身請けされて大門を出るなんて、女郎にとっちゃこの上ねえ幸せじゃねえか。どこに流れつくのか定まらねえ浮き河竹が床の間の花入れになったんだ。私ら亡八と後ろ指をさされれちゃいるが、親に見捨てられた女を食わせて、廓から旅立たせたんだから、こちとらも鼻が高え」
「てえしたもんだ、内儀。そういうことなんだな……」
「蔦よ、見失ったもんに気付いたようだな」
「内儀、一杯注いでくんねえ」
 蔦重の差し出した猪口に、お藤は酒を満たした。
  
 2カ月後の寛政7年正月、吊るし売りの役者絵が耕書堂の軒先で、木枯らしに凍えるようになびいている。
「もう外して片づけておくれ」
 蔦重は丁稚に命じた。
 間版、細版計10図余り、店先から姿を消し、写楽との縁は切れた。
 前年末、写楽は最後の版下絵を描き終え、こう切り出した。
「約束のこの一年弱、大変お世話になりました。蔦重殿のお陰で、手慰みで描いた役者絵が世間に売り出されるとは夢にも思いませんでした。もう思い残すことはありません」
「もう一度、大首絵でもよかったんだが」
「その話はもう蒸し返さないでいただきたい。私がお断りしたのですから」
 正月興行に向けた事前打ち合わせで、蔦重は大首絵の復活を持ちかけたが、写楽は首を縦に振ろうとしなかった。「何を、いまさら」。蔦重に対する不信感を煽るだけだった。
「もう一度、絵筆を持つ気はねえか。私の不手際で迷惑を掛けたが、画才はあるんだ。一からやり直そうじゃねえか」
「勘弁してください。写楽銘で130余枚を手掛け、己の力不足を思い知らされました。絵師として一本立ちできる技量などございません。殿がこの春から江戸住まいとなります。潮時でございましょう」
 もともとこの一年、主君の阿波国徳島藩主、蜂須賀治昭が在国の年に当たり、江戸住まいの藩主お抱え能役者である写楽は時間的余裕があることから、蔦重の誘いに乗った経緯がある。
「どうしてもかい、どうしても絵師に鞍替えする気はねえってのかい」
「ありません。蔦重殿、どうかご理解いただきたい。最早、写楽とは名ばかり、写すのが苦でしかないのです」
 役者絵制覇のために惚れ込んで白羽の矢を立てた男を絶望の淵に追いやっていた。貶し謗られるのを覚悟で出版した大首絵を、なぜ手仕舞いにしたのか。目先の金か、座元や役者の圧力か、庶民に阿たのか。役者絵で主導権を握り、日の本一の書肆になる焦りか。悔恨が渦巻く。
 蔦重は、写楽に見捨てられたことを悟った。
                          第11話に続く。


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