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優しさとはなにか

「優しい」とは、どういうことか。


「優しい」とは1つにはとてもまとめ切れないほど、抽象的な概念だろう。
それは、「優しさ」の行為の判断が、受け手に委ねられる部分が、多くあると感じるからだと、
個人的に思う。


受け手が、それを「優しい」と判断しないのであれば、途端にそれは優しさではなくなってしまう。
例えば「誰かを思って、時に厳しいことを言う。」これは受け手によっては、優しくない人に当たるのかもしれないが、そうとは言い切れないことも多いだろう。


では、優しさとは本質的に一体何を指すのだろう。

受け手にとって、優しくあることを主体とし、相手の顔色を伺うことなのか。
たとえ相手から嫌な顔をされても、相手の為を思って、時に厳しいことも言う。それが優しさなのだろうか。



私がふと、こんなことを考え出したのは、
アルバイト先にいる主婦の方がきっかけである。


その方は、本当に良い人で、どの程度、良い人かと言うと、100人がその方と関わりを持てば、
その中の95人くらいはその方を良い人だ。
と言うくらいに良い人だという程度だ。
かなり良い人だと思わないか?


ついこの間、その主婦の方とお話をしていた際、旦那さんのお話になり、旦那さんのお仕事のお話を聞き、この方は、経済的にものすごく余裕があるのか、と感じた瞬間に、その人が良い人であることに妙に合点がいってしまったのである。


私は今まで、優しさのアプローチの違いに着目していたが、そもそも優しさを持とうとするのではなく、優しさを持てるということが、大事なのだ。



自分の優しさを相手に押し付けることがなく、純粋な気持ちで他人に優しく振る舞えるその優しさは一体どこから来るのか、と考えた時、あらゆる「余裕」から来るのか。と考えた時に、妙に合点がいき、優しさの構造に理解ができた気がしたのだ。


この世に優しい人がいるのと、優しくない人がいるのは、性格や、生い立ちや、さまざまなものが複雑に絡まり合っているように感じていたが、
案外シンプルな話で、
現時点でいかに「豊か」な人が他人に優しさを『持ちやすいか』なのではないかと感じた。

お金を持っていても、他人に優しくできない人が多くいるのは、その人が本質的に豊かではないからなのだと思う。それは文化的に豊かでなく、想像力に欠けるから、かもしれないし、人間関係が豊かでないから、自分や他人を愛し、優しくできるような態度が育めなかったからかもしれない。

「優しさ」とは、人間力であり、総合的な値なのだろう。


そのため、他人の顔色を伺うような、自分にとって都合が良くなってしまう優しい人や、どこか自分の価値観を押し付けているような、「相手の為を思って」という優しさには、余裕のなさを感じ、なんだか、しっくり来ないな。と今まで感じていたのだ。

その主婦の方から私が感じていたものは、あらゆる「余裕から生まれる優しさ」だったのだ。


本当の意味で優しい人とは、強者なのかもしれない。
それは、優しく振舞えることこそが、その人の
人生の豊かさを示しているからだ。


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