[読書メモ]『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(立花隆)

p14
本の評価などというものは、読む人によってちがいすぎるほどちがって当り前である。本の本当の評価は個人的たらざるをえないのだから、当然それは読む人自身にまかせるのがいちばんである。

p18
世の中ヒマ人と忙しくて仕方がない人(いろんなグレードがあるが、ゆっくりメシを食うヒマも十分にとれないのが日常的、という人が本当に忙しい人)とどちらが多いかといったら、ヒマ人のほうが多い。そして、出版界のかなりの部分が、ヒマ人のヒマつぶし的消費(時間も金も)によりかかっている(ちなみに出版界そのものはどうかというと、忙しくて仕方がない少数派と、ヒマな多数派が混在している)から、ヒマ人向きの本が書評でもついつい取り上げられがちである。

p24
速読術の本を読むと、眼の訓練など、さまざまなテクニックが解説されているが、基本は、テクニックより熱中である。脳の働きは、熱中している対象に対しては何倍も働きがよくなる (情報処理スピードがあがる)。だから、熱中して本を読んでいるときは、自然に速読ができている。では、熱中できない本を速読する方法はあるかといったら、基本的にはむずかしい。一つの手は、その本を何がなんでもある時点までに読まざるをえない状況を自ら作ってしまうことである。たとえば、仲間うちで小さな読書会を作り、自分をその本の報告者にしてしまえば、必ず読むだろう。それに似た、逃れられない危機的状況を自分で作ってしまえば、頭が火事場のバカ力的な超常能力を発揮して、読めない本も読んでしまうものである (ムリなスケジュールを組んでしまうなど私は個人的にこの手をずいぶん使って成功している)。

p27
要は、脳の無意識の働きを信頼することである。

p37
[書評は]映画の予告篇と同じで、本篇のネタばらしをやりすぎてはいけない。見たい (読みたい) 気持をひきおこさせるところでとめるようにしている。

p39
世の中には異常なものを毛ぎらいして、なんでもかでも正常なものにしがみつこうとする人が少なからずいるが、そういう人は、本当の意味では世の中に適応する能力が欠けた人間というべきである。なにかしら異常なことが常に起き、異常と正常の間のラインが少しずつずれていくのがこの世のリアリティというものである。だからこそ、異常を見すえ、異常を測ることなしには、正常なるものの正しい認識ができないのである。

p40
内容のよしあしは価格とは全く別で、安くてよい本も沢山あれば、高価でダメな本も沢山ある。

pp41-42
そういういい本に出会うと、自分も応援団の一人になって、少しでも売れるようにその本をもっぱらほめまくる書評を書くことになる。

p43
一九七〇年代にはいってから、ファッションでおなじ本を読むということがなくなった。ぼくに言わせると、統一市場が崩壊したんですよ。だから、市場はものすごく多種多様に、かつ一つひとつが小さくなった。そこに小出版社の成立する根拠があると思います。

p45
「一発当てろよ」とか「もっと売れる本をつくれよ」とか世間の人は言います。でも、それと逆の方向でやるしか、こういう出版社は成立しないんだという確信がある。勝算もある。だから、平気で「根性あるヤツ、買ってみな!」という値段の本を出すことができるんです。

p46
文化のいちばん大事な部分は、なんらかの意味で必ず本とつながりを持っており、本を作る人 (売る人、書く人も含めて)と本を買って読む人の間の共同作業というか共同事業によって支えられているのである。

p47
本を出すという事業は、それをお金を出して買ってくれる人がいてはじめて成立する事業であり、本質的にそれは、作って売る人と、買って読む人との間の共同事業として成り立っているのである。その本質が、小部数で高価な本であればあるほど見えてくる。

p48
人類文化の全体像を最もよく写しているのが、書物の世界の全体像だということができる。それは歴史的には図書館におさめられた歴史的書物群全体の中に写されているし、現在の全体像は、書店の店頭にならんでいるいま流通している書物群全体の中に写されている。

p48
どれだけ多くの本を読み、どれだけ多くの小世界の住人となり、自分をどれだけ多くの多世界存在者にしたかによって、その人の小宇宙の豊かさがきまってくる。

p50
「値段が高くても買う人は買う」のが良書の世界だから、大手であろうと、小出版社であろうと、スケベ根性を出して価格と部数を読み誤るということさえしなければ、この世界は手堅い商売ができるのである。

p53
いまはコンピュータ製版の時代だから、昔は手数がかかった索引作りも、簡単にアッという間にできる。索引でいちばんいいのは、どのようなコンテクストでそれが出てきたかを示す、前後のコンテクスト付きの KWIC (キー・ワード・イン・コンテクスト)方式の索引で、同じ岩波の『プラトン全集』、『アリストテレス全集』など、どちらもこれをつけている。昔はこの方式の索引を作るのには大変な手間がかかったが、今では、コンピュータのおかげで簡単にできる。必要なのは編集者のやる気だけなのである。

pp54-55
『キケロー選集』『白川静著作集』にかぎらず、高価な本をよく紹介してきたが、私は、本は基本的に安いと思っている。本に書かれている情報を他の手段で手に入れようと思うと、だいたい他には手段がない場合が多い。本は、ある情報をほしい人たちが集って、お金を出しあって、一定の情報を共同購入しているのだと考えれば、安くすんでいることがすぐわかる。その情報を単独購入するために、適当な情報提供者を家庭教師として自費で雇って教えてもらおうと思ったら、本代の何十倍何百倍もかかるのが普通である。マクドナルドの学生アルバイトですら一時間千円近く稼ぐ時代だから、キケロを読むために、ラテン語ができる先生を家庭教師にして、何時間も何十時間もかけて、キケロを講義してもらおうと思ったら、本一冊分講義してもらうだけで、何十万円もかかるだろう。

p60
大量販売に不可欠なのが、広告宣伝である。大量広告による大量販売という戦略が意識的に取られ、それが劇的に成功したのが円本ブームで、これ以後、出版と広告は切っても切れない関係になった。新聞広告のいちばん目立つ広告主が恒常的に出版社という世界でも珍しい状況 (日本ではあまりに当り前になってしまったので、これが世界で珍しい状況だということに大半の日本人は気がついていない)が生まれたのもこのときからである。

p75
私は書物というのは、万人の大学だと思っている。どこの大学に入ろうと、人が大学で学べることは量的にも質的にもごくごく少い。大学でも、大学を出てからでも、何事かを学ぼうと思ったら、人は結局、本を読むしかないのである。

p91
日本の権力の真の所在は官僚なのである。そして、官僚のパワーの源泉になっているのが、情報の独占である。

p99
「すべての手口は、古くからある詐欺の新しい形に過ぎない」

p100
若いときは、世の中にそんなにも沢山の人を欺す人がいるとは思わないから、つい欺されてしまう。

p126
生命が誕生してから三十五億年。その間に生まれた生物は五十億~五百億種。その九九・九%はすでに絶滅している。絶滅こそ生物種に普遍的に訪れる運命なのだ。

p128
人間というのは、健康のためなら、相当怪しげなものにも平気で金を投じるものである。

p161
日本はこの半世紀間に、二度にわたって国家経営を根本的に誤り、国をほとんど破産状態におとしいれた。一度目は戦争によって、二度目はバブル経済によって。しかし、二度とも、ときの国家指導者から、このような真摯な自己批判自己反省の弁は全く聞かれなかった。日本は指導者が無反省ですむ国だから、またいずれ劣悪な指導者によって国が危うくされるだろう。

p172
小さな失敗は、個人の頭の中や、組織の部内だけでおさめようとするので、逆にいつのまにか大きくなって大失敗に発展しがちである。大きな失敗があると、組織的な失敗原因の分析追究が行われるが、それは必ずしもオープンにされないから、失敗は社会的に学習されない。そして失敗情報は、単純化、歪曲化、神話化といった運命をたどりがちである。

p180
日本は、現場のマイナス情報がトップに伝わらない国であると同時に、あらゆる角度から可能性を検討した上での総合的戦略がたてられないためにバカげた大ポカを国家的にしでかしてしまう国なのである。

p208
デリバティブの取引で数千億円単位の損失を出す者もいれば、逆に儲ける者もいる。しかし、あらゆるバクチと同じくいちばん儲けるのは胴元なのだ。

p234
日本は懐疑の精神の伝統を持たず、それが故に軽信の伝統を持ってしまった国である。

p241
生まれた後も、母と子は絶えず他者として葛藤をつづけていかなければならない。母性愛の神話を取り去ってみると、母性愛の眼鏡をかけていては見えなかったものが見えてくる。

p247
サイエンスの基礎は博物学にあるということがよくわかる。

p248
「これまでの歴史では、まず、『未知』を『安全』と言い換え、危険だというデータが出てくると、『慢性毒性試験で(仕方なく)おこなっている短期間での高濃度または大量投与は実際にはありえない』とか『動物実験の結果は人間にはあてはまらない』と言って、そのデータの不十分さを衝くことで、『危険がきちんと証明されていない。ゆえに安全』という奇妙な論理のすりかえが往々にしてまかり通ってきた」/「安全を確認した場合に販売を認める」という原則が、いつのまにか「危険性が確認されてから禁止する」という原則にすりかわる。しかし、環境毒性に起因する病気・障害はすべて「多因子性」であり、多因子性障害の厳密な因果関係証明は、厳密性にこだわるかぎり事実上不可能である。

p291
はじめて世に出た新事実を抽出し、それを取材によって検証しながらモザイク模様を完成させるようにして、全体像を浮かび上がらせていくという、ジャーナリズムのいちばんオーソドックスな手法を用いることによってできたのが本書であるという。

p299
社会はリサイクル化に向かわなければ、廃棄物で窒息してしまうことが必至という状況になって、製造業者もこの流れに我関せずの態度のままでいることは許されなくなってきた。

p299
通産省は、インバース・マニュファクチャリング(逆工場) こそ、未来の産業構造の中核をなすべきシステムであるとして、強力にその流れをバックアップしている。

p302
著者は最後に、「『昭和陸軍』を否定しつくしたところから真の『戦後』がはじまる」というが、現代社会の現状は、我々がまだそれを否定しつくすことに成功していないどころか、陸軍の増長を許したと同じことを、戦後も、現代日本の大小さまざまの組織 (上は国家から下は個別企業まで)においてやってきたのではないかということである。

p328
アナール派らしく、各時代のデータが豊富なところがよい。読書が一応普及した十八世紀末の時点で、ドイツで恒常的に読書をした人は、成人総人口の一・五%で、平均初刷り部数から一つの書物を購入する人は人口の〇・〇一%、それを読む人は○・一%と見つもられるという。堅い本の読者というのは、いまの日本でも、平均初刷り部数からいって(恐らく一万部以下)、その程度あるいはそれ以下なのではないだろうか。

p331
軽いレベルの応用なら、CMでも、政治活動でも使われている。現代という時代は、社会のあらゆるレベルでマインドコントロールのテクニックが使われている時代なのだから、精神の健康を保つためには、誰でもマインドコントロールに関わる基礎知識を持っておくことが必要である。

p355
彼はたしかに経済に明るく、さまざまのものが秀才的に見えていたが、政治的には無能だった。政治家として最も大事な資質、強い意志、行動力、人を動かす力に欠けていたのである。

p378
私はどちらかというと、テーマを次々に変えて仕事をするタイプだから、一定の時間が経過すると、そのテーマを捨てて、それにかかわる仕事を受けないようにしているが、それでも大きな仕事については、基本的にその後も資料を保存するようにしている。/それは、関連性がない仕事をしていても、思いがけないコンテクストで、前に使った資料が必要になってくることが少くないからだ。

p379
物理学の用語を使っていえば、人間の頭は、非マルコフ過程の典型なのである。物理学では、過去に起きたことは一回ごとにご破算にされ、過去が未来にかかわらない過程をマルコフ過程といい、過去の履歴が未来にすべてかかわる過程を非マルコフ過程という。

p380
体に覚えこますことがとてもできないような大量のデータ、あるいは高度に抽象的で体に覚えさすことになじまない性質のデータを扱うことの上に成立している職業人の場合は、思いがけない過去の記憶を活用するために、どうしても正しい記憶を喚起する手がかりとしての資料の参照が必要になってくる。

p383
やっぱり資料は生きてるんだと思った。資料は生きた自分の一部なのである。いってみれば、資料は外部空間においた自分の脳の一部、メモリーの一部なのである。生身の自分と全く離れたところに持っていってしまうと、メモリーも死に、それに応じて自分の一部も死んでしまうのである。/人はたしかにメモリーベース・アーキテクチャーなのである。メモリーは、その人の本体である。人格の相当部分がメモリーの中にある。

p385
誰にとっても、死んだらどうなるかより、いまどう生きているかのほうがはるかに大切なのである。

p398
ここは、政治家に奮起してもらい、国家百年の計として、居住スペース三倍増(心を豊かにするにはそれくらいにする必要がある) 計画でもやってもらう必要がある。


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