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23歳のいま思うこと、これから発信したいこと

昨日で23歳になりました。「若いし未熟だなあ」と常々感じています。アイキャッチの不思議な写真は先日行ったボルタンスキー展でみた作品です。

日々勉強しているなかで、outputする場をつくらないとなと思いつつ間延びしてしまっていたので、誕生日を区切りに書いていくことにしました。

23歳のいま思うこと

さて、23度目の誕生日。最低でもあと97回は迎えたいなあ。
1年に1度の誕生日。自分が辿ってきた道をちょっとだけ振り返る日。

いつもお世話になっている方々(アフリカで繋がった方・数少ない友人たち・家族)ありがとうございます。僕にとって誕生日は、祝われるより感謝する日。今の自分があるのは、これまで出会ってきた人や見てきた景色、体験したことのおかげだと思っています。本当にありがとうございます。

余談が過ぎました。アフリカ行ってから勉強の面白さに目覚め、「資本主義ってなんぞや」「宗教ってなんぞや」「学問てなんぞや」「生きるってなんぞや」「死ってなんぞや」「幸せってなんぞや」「政治ってなんぞや」「歴史ってなんぞや」と、挙げればキリがありませんが1学生なりに色んなことに疑問を抱き、日々学んでいます。

でも何か1つ、「あぁ!そういうことか!」ってなると「じゃあこれはなんでこうなったん?」と新たな敵が現れる。「きっとこの先に何か見えるはず!」と信じて本やネットを漁ってみても、普遍的な「絶対解」は見つからない。

それであるとき、「なるほど、問いの立て方(絶対解を探す)がそもそも間違っていたんだ」と気付きました。

今は、
①ぶつかった問いに対してあらゆる可能性や選択肢を考えた上で、最適解を導き出すこと
②自分が過去に出した答えであっても疑いながら、考え続けること
③健全な批判を通じて鍛え続けること
④結果として発露している現象の背景にある構造を分析すること

こうした態度を取り続けることが、アカデミックな意味での学ぶ本質であり、人間であることの証明なのでは?なんてことを偉そうに考えちゃってます。

でも疑う力は本当に大切だと思っていて、時代によって正しさが移ろってきているのは疑いようもなく、現在の人類が正しいと信じている市場経済や民主制が、100年後には愚策だったといわれるかもしれない(あくまで可能性の話で、僕個人としては市場経済は最適解だと思っています)。香港でのデモはまさに「自由主義vs共産主義」を象徴しているし、政治経済政策として理想とされる北欧の福祉主義が、少しずつ揺らいでいるともいわれている。

もっと身近なところで言えば、日本のある時期までは確かに「いい企業」「いい大学」が存在し、退職まで骨を埋めることがよしとされた時代がどうやらあったらしいが、公務員でさえ副業や転職が当たり前になって来ているし、45歳以上の社員に対して早期退職を奨める企業が出てくるような時代に。本当に何が起るか分からない。

日本だけでなく世界に目を向ければ、温暖化・貧困・紛争と難民など、地球規模の問題もたくさんある。どこで何が狂ったんだろう。でもその問いにきちんと向き合う必要がある。

僕は政治思想的に左寄りなので、出来る人が全体最適を考えて、公正な社会をつくる責任があると思っています。一人では何にも出来ないし、時間通りにどこかに移動することすら出来ない。もし僕が江戸時代に生まれていたら、圧倒的に障害者で役に立たない人間だったと思う。それは「目が悪い」から。レーシックを受ける前は極度の近視で、左右ともに0.01くらい。裸眼じゃ何も見えない。

だけど、たまたまその課題を解決するのに必要な才能を持った人が過去にいたから、僕らはいまコンタクトやレーシックといった高度医療の恩恵に浴している。

極端な例を持ち出してしまったけど、才能を持って生まれた人やわずかでも余裕のある人が、自分なりの方法で社会貢献をすることは責任だと思っています。

じゃあどうやって今の世の中の問題を解決するのか。正直言って分からない。ただ、「ちょっとの愛とちょっとの想像力で世界は善くなる」と信じています。

京アニの事件。あの事件を生んだのは、もしかしたら社会かもしれない。
もし彼の存在を受け止めて、彼の育った境遇に想いを巡らせる人に出会っていたら、もしかしたら悲惨な事件は起きなかったかもしれない。

「この度、たった1人の卑劣な犯罪者のために、まだまだ多くの素晴らしい作品を輩出したであろう、才能と想像力にあふれた多くの人材が亡くなり傷ついたことは、私ども遺族や被害者家族のみならず、日本の大きな損失です。」

遺族の記者会見で語られた言葉。部外者である僕には、被害に遭われた方々の恐怖や、ご遺族の方々の喪失や悲しみの深さを理解することは出来ませんし、犯人を擁護するつもりもありません。だけど、犯人の生い立ちがどんなものであったのかを報じないのはフェアではないと思います(テレビ見てないだけで報じられてるのかもしれません)。

障害のある人や同性愛など、日本社会はとりわけ人と違うことを嫌悪する傾向にある。線路に飛び込んで人身事故を起こそうものなら「一人で死ね」と平気で言う。だけど、その人が背負っている苦労や背景を少しでも考えられたら、今より優しい社会になるんじゃないかって思います。

もしあなたが学校に行けない家庭に育っていたら。
もしあなたが虐待を受けていたら。
もしあなたがいじめられて、頼れる人にも出会えなかったら。

それに人はいつ自分が当事者になるか分からない。事故に遭って障害が残るかもしれないし、朝起きたら身体がおかしくなっていたなんていう確率も0ではない。ましてや自ら率先して貧しい家庭に生まれ落ちたわけではないし、障害を得ようと積極的になるはずもない。

日本では自己責任論が市民権を得ていますが、果たしてどこまで責任を負えるのか。お腹の中にいる段階から、ある程度どのような人格に育つかが遺伝学的に予測可能になってきています。それは生まれつき優しいのか、暴力的な子なのかが分かってしまうということ。その子や親に責任は負えるのか。

科学の発展により、自由意志や責任概念の揺らぎが起っている。が、だからと言って「私には責任取れませーん」と非道徳的な行いが許されるわけではない。それでも、人間がそうした特殊性を持っていると分かった以上は、社会や国家の在り方について考え直す時期にあると僕は考えています。

そしてポスト資本主義(部分最適ではなく全体最適)を研究するために、それから教育者になりたいという目標のために、オランダの大学に入り直してリベラルアーツや教育学を学ぼうと考えていました。英語で授業が行われ、世界中から学生(と言っても年齢は一緒か上)が集まる大学で、政治や経済について議論したいなと思っていました。まだまだ批判能力は低いし、基礎教養も未熟ななかで、優秀な人々と対話や議論がしたかったのですが、「いつでも行けるじゃん!」と思い、1度国内で就職をすることにしました。

就職に関する詳細は別途書くと思うので興味があればまた読みにきてください笑

なんだかまとまりないしシリアスなこと書いていますが笑

とにかく。これからは少しずつでも与えられる側から誰かにきっかけや気付きなどを与えられる側にいきたいなと思います。

そんな訳で、これからは以下のことをnoteで発信していきます▽

これから発信したいこと

コンテンツマッピングはだいたいこんな感じ▽
①読んだ本の要約と感想・気付き
 Ⅰ 学術書
 Ⅱ ビジネス書
 Ⅲ 小説その他
②経験談とそこから得た教訓
 Ⅰ 大学編
 Ⅱ 海外編
 Ⅲ 人生編
③興味関心・目標
 Ⅰ 勉強編
 Ⅱ 時事(オピニオン)編
④自分史
 Ⅰ 自己紹介編
 Ⅱ 日常生活編
⑤日記・雑学・趣味

本は基本的に読んでよかったと思うものを独断と偏見で選び、書いていくつもりです。帰国後学んできたこともシェアしていけたらいいなと思っています。趣味は考えることや、新しい視点をくれる体験が好きなので基本何でも好きです。珈琲・お酒・アート・読書・映画・旅・料理・お散歩・対話や議論などなど、これ以外でもとりあえずやってみる派なので楽しいものがあれば教えてください(㊟人混みがあまり好きではないです)。

最後に、友人が教えてくれた太宰治の『正義と微笑』に出てくるフレーズが、言葉で言い表せないくらい好きなのでご紹介します。

「勉強というものはいいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間の許す限り勉強しておかなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えると言うことが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つということなんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接役立たせようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!」太宰治『正義と微笑』

なんだか、完全に論破されますよね笑
終わりのなさ、非競争性を象徴するカルチベートっていう言葉を選んだのがすごいなと感じます。近代の西欧でも、「道徳的人格の成長・完成こそ共通の善であり、それに寄与することが国家の役割である」という思想が現れていました。(T.H.グリーン)

もちろん【継承する責任】という意味では、学んだことを忘れていいとは思いません。古代語を学ぶ人が資料を残し継承してくれたから更に研究が進むわけで、そこに大学や研究機関の存在意義があるのかなと、大変生意気ながら思っています。

役に立つか立たないか、合理性だけを求める就活予備校になってる今の大学はアップデートしないとって思いませんか?

さて、ここまで長々と書いてきましたが、大学生活では色んなことに取り組んできたので、自己紹介も含めてその辺を次回の記事にしたいと思います。読んでいただきありがとうございました\(^o^)/

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