「ヴォイド・シェイパ」シリーズを読んで

全五冊からなる。


戦闘シーンが素晴らしい。内省的というか、内へ内へ向かう小説という媒体の良さが表れている。静かで、刹那的で、血飛沫飛び交うシーンがカッコよくて美しい。人を斬る、その淡々とした動きの中に、選択の流れに、これを求めていた!と感じた。
映像的でもあるけど内省的だから、今までは取りこぼされてきたものが全て含まれている。一つの到達点に思えた。

人を斬った後、清々しさは全くない。何故こうなったのか、傷つき死ぬことにどうしてなるのか、虚しさしかない。個人的な動機で行動する人々の中で起きることに、明解な「斬る」理由なんてない。目に見えるもので判断し決めつけ「斬る」。勘違いで激昂し刀を抜く者、悪と思しき者、そんな侍たちを相手どる。生きる為に。
それがどこまでもリアルだ。

ものを知らないゼンだからこそ、とても素直に本質は問いかける。答えは出ない。しかし自己の中でそれを繰り返し、それを糧に強くなっているように思えた。それは
理屈で説明できない矛盾を許容した、みたいな感じか。
常識の隙を突くような問い、当たり前に浸った人からしたら斬新、そのズレを生み出す会話が楽しい。ゼンの澄んだものの見方にはハッとさせられる。

「ヴォイド・シェイパ」
キザクとの会話「人の価値は生死とは無関係」「わしにとっては、ナツさんの価値はずっと同じ。死んだことを知らなければ、価値があって、死んだと知らされただけで、価値が失われるか?」
生きているからこそ、選択し行動し何かを為せる。でもそれは当人のことであって、他者からすれば関係なく価値は変わらない。最後に見たもので決まった価値のまま。つまり死ねばもう「変わらない価値」になるというだけのことか。
結局は価値なんてものは、他者が見る幻想。当人には関係なく影響しない。しかしその幻に励まされたり何かを感じることが、人間の良さな気もする。

ヤエジの死を見届けたゼン。「いずれもが己の道理を通そうとした結果」「そう考えなければ死んだものは無念だろう」自分の思うように生きる、思うことを成す。それができないことが無念といえて、哀れではなかろうか。そうやって生きたいものだ。

これからのゼンにサナダ「自分を映されるがよろしい」
これに近い言葉が、これ以降もよく出てくる。強さを求める道を自分の中に見ろ、そんな感じ。しかし強者との立ち合いでゼンは学びを得ているようにも思う。鍼治療はただ体に針を刺すだけで、何かの栄養や成分を付与するわけではない。刺激を与えて元の力を活性化させる、そんなイメージの治療。「自分を映す」とはそんな感じか。凄い技を見て、それを自分の中で処理し増醸させるような、それがさらなる強さに至る唯一なのだろうか。


「ブラッド・スクーパ」
「大きな動物はだいたい同じ形です。人間に近いものということですか?」なぜ同じような手足をもって動物は生まれるのか、そんな当たり前過ぎて見過ごされる疑問を持つ。

「人の死も、それが美しく強いものであれば、悲しむべきものではない」
なんかよくわからん。が、このシリーズ通しての一番の魅力を言い表してる気がする。ゼンはなぜ強いのか?それは誰よりも問うから。しかしカシュウは言う「考えるな」
問い続けることで微かに見えた「筋」、それの蓄積が一瞬の剣に宿る。それ瞬間は考えてはいない、偶然に近いひらめき。しかしそれは日常の問いから続く「道」なのではないか。

凄惨な斬り合いの後、振り返って笑える。前を見ると笑えなくなる。極限状態では身体は意志以外で動く。なぜかはわからないというその馬鹿らしさだろうか。

クローチの言葉「悲しみというのは、人真似で育つもの」悟った僧も何かの人真似で、人が何の影響も受けないことはないのだ。誰もが誰かの真似をしている。そんなものか、うん、思い当たるものがあるな。

ハヤの言葉「なにかを信じることは、自分が自分の思うようになるという希望の道筋」
信仰や信念、哲学など、生きる為に支えとするものか。根底にあるのは、生きたいという欲求。生きる為に信じる。理屈や論理で答えに至らない「道」がある。最後には、信じるしかないと思う。たぶん問い続けるのはしんどいから、それでは進めないから。「信じる」と正しいと仮定してしまう。しかしそれは問い続けたものだけが許されるのではないか、と思う。


「スカル・ブレーカ」
タガミもしくはヤナギの言葉は釈迦の言葉に似ていると思った。「ありのままに想うものでもなく〜」というやつ。とても人間が到達できそうに無い心の境地。この矛盾のような境地は、しかし人間ならば行けるのか。人間自体が矛盾を抱えた生き物だと思うから。
近付くには、風に当たるように外的な刺激(ゼンが山を降りたように、独り閉じこもっては無理、というかまだ早い)に自分の内面がどう反応しているか、窺い、理解し、また悩み、それを繰り返すことかな、と予想してみた。うん、難しい。

ノギの知り合いの娘が殺された。誰が悪いとは一概にいえないか。
人が死ぬと、涙を流し悲しむ。死ぬことは、いずれ避けられない事、悲しむことではない。でももう会えない話せないことは寂しい。やり残した事、無念があったのでは、と勝手に想像して哀れむ。なぜだろう。
たぶん死に方やその人との距離感でも感じ方が変わる。当たり前か。なんか、人とどう付き合うべきか、を考えさせられた。死に方を必ずしも選べるわけではないのだ。


「フォグ・ハイダ」
「何故、命がけの勝負に惹かれるのか?真理を見たいから」刀で切れないもの(出来だけ人が死なない方法やこの世の正しさなど)、それを知る為の剣の道なのかもしれない。とふと思った。強さを何故求める?どこに求める?その問いがいつまでも繰り返される。

和尚との会話。生きる為に悪事を働いても良いのか?贅沢をして生きたい、人を蹴落として、人を殺す為に生きたい。出来ぬなら命などいらないと。これを禁ずるのは正義か?
これもまた難しい。答えはあるのかなぁ。生きてるだけで数えきれない命を奪ってしまう。そうまでする価値は?問い続けるべきなのか。誰もが、安全で痛みも悩みのない幸福を志向しているはず。と思うのだが、そうではないのか。しかし大多数がそうなはず。この社会秩序が生まれたのは当然の流れ。付随して社会の抱える問題も仕方がないともいえる。
どこまでを許し、どこから悪とするか、その人の境界線、それが問われる。それを統一できたらある意味平和か。しかしその歪みが、新たな悪として噴き出す。今の社会もそうではないか?
自分の正義をいちいち面倒臭く何度も細かく問いかけ確認する、これは正しいのかと。それがもしできたら、その者は善き人と言えそうだ。みんながそうなれば平和かな。


「マインド・クァンチャ」
「考えることに囚われている間は、それを拭い去ることはとうていできなかっただろう」理屈を考え続けたゼンがたどり着いた強さの高み。また釈迦の言葉を思い出した。矛盾を己の中に成立させれた者がたてる場所なのか。

とにかくこの最後の話は一気に読んでしまった。最高のラスト。あぁこれがゼンだ、と思った。

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