シリーズ・うちとポケモンgo

超現実型大規模MMORPG 人生 本日、アップデートします。

思い出してみよう、例えば

小学校の頃、何処にいるか解らない蝉の声だけを頼りに高い木の幹を舐めるように見渡した事。保護色は完璧で其処から鳴き声は聞こえるのに、そいつの姿は見えないんだ。うちらが指を明後日の方向差し始めた頃、奴は息を潜めて飛び立つ準備をする。やがて置き土産のpissをうちらの顔面にふっかけた後、奴は得意げに飛び去るんだ。うちらが首を傾げているその隙に、奴らの声は別の木から、また別の場所から、勝利のファンファーレの様に鳴り響いてくる。

思い出してみよう、例えば

小説やアニメや漫画を楽しんで泣いてしまった時の事。それはここではない何処か、今ではない何時か。それでもそこに生きた勇者や魔王や姫や偉人達は、圧倒的な臨場感を持って僕らの感情を震わせた。その物語の余韻は強く続き、僕達は小さな勇者になる。あの時の僕らは確かにジュウレンジャーだったし、仮面ライダーだった。セーラームーンだったし、レイアースだった。同じ様に僕達はマザー・テレサにも成れたし、福沢諭吉にも成れた。読書体験は夢の様だと僕は思う。なんて臨場感で世界を変革してしまう。変わった世界の空の色を僕は今でも鮮明に思い出せる。

思い出してみよう、例えば

知らない街にたった一人降り立った日のこと。その街に僕を知る人は誰もおらず、それはつまり新しい冒険の書が記録されたと同じ事だ。僕達はこれから様々な出来事をその街で経験する。それは悲しい事かもしれない。辛い事かもしれない。けれども僕らの記憶というメモリーには確かに冒険の書が配置された。ルイーダの酒場をくぐる不安と恐怖、そして身震いする様な高揚感。大学の門、職場の自動ドア、旅館の暖簾、自分の知らない場所の、自分を知らない人たちの日常に佇む、それはとても簡単な非現実の楽しみ方だ。例えるなら駅のホーム、ハレとケの境目に身を置く優越は実にエキサイティングだ。

小説、映画、音楽、全て僕達は「現実を拡張」させて物事を楽しんできた。それに新しいツールが、全く新しいツールが加わったんだよ。2016年7月22日に。

これは始まりだ。

したり顔でポケモンgo人気の終焉を嘯く人がいる。何を言ってるんだ?って僕は笑うよ。これは始まりなんだ。これから始まるんだ。

蝉を追う事も、ロールプレイを楽しむ事も小説映画を楽しむ事も旅行をする事も、実はポケゴをする事と大差ない。みんなこんな単純な事で楽しんでいる。始まりは何時もチープなのだ。そのチープさに僕らは物語を読み、出会いを楽しみ、拡張された非現実を謳歌する。

何時も人は物語に値段をつける。物語は螺旋状に加速して反エントロピーとなる。僕達は今ビック・ジェネレーター、世界を動かす大きな機関の一部、そのモーターの心臓部が今回たまたまポケゴだっただけ。

僕達は次々にスマホを持って街に出るだろう。それはポケゴだけには飽き足らず、当然妖怪ウォッチや女神転生なんかにも適用されるだろう。これは始まりでしかないんだ、新しい物が恐ろしい人々よ、規制という臆病者の論理に逃げ込む人々よ、もうアップデートは行われたんだよ。世界の。

チープさはとても重要な始まりの合図、最初のブラウン管は何を写した?ドンキーコングの最初はどんなゲームだった?
それで楽しむ事が最初なんだ、ゾイドのTREXを持って、口で「ブシュウウウン!ドカーン!ゴオオオオオオ!」っていう事が重要なんだ。そんな幼稚な遊び方、だって?あんなに正しくて楽しい現実の拡張方法なんてないんだよ!(笑

僕は女の子だったから、ゾイドを買ってもらえなかった。でも僕は今ポケモンをプレイしている。ピカチュウが「ピッカッチュー!」って鳴いてくれる世界にいる。

世界運営、ありがとう!最高のアップデートだ!

#ポケモンgo

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