昼下がり先生

二年A組の担任で、現国を教えている日盛(ひさかり)という教師がいる。昼休みには職員室の窓から校庭を望みながら、こくりこくりと居眠りをするので生徒からはこっそりと、昼下がり先生、と呼ばれていた。頭皮を申し訳なさげに覆う髪を、暖かな昼下がりの風に靡かせて今日も昼下がり先生は居眠りをしている。細い棒のような体に似つかわしくない大きな頭が船を漕ぐたびに、度数の高い黒縁メガネが落ちそうで、落ちなくて、その様子もまた滑稽で、暇な生徒達の物見の種になっていた。
校庭の端から、その昼下がり先生の薄い頭を眺めながらこそこそと何かをしようとしている男子生徒が二名居る。名前を高橋と伊藤と言った。二人ともこの中学に通う生徒であって、札付きというほどではないが、人の道を違える事にほのかな憧れを持っている。その一歩がタバコであった。
高橋には兄が居た。現在は大学進学にて故郷を離れているが、長い休みに入ったので一時故郷に帰ってきている。兄の手にあったのはセブンスターであった。弟の目からは兄が美味そうにタバコを喫む姿がどうにも眩しく、羨ましく映ったらしい。二人は校庭の隅の、運動部ご用達のトイレの中に身を隠す。
幽霊が出るだとか、居空間とつながっている、だとかでほとんど人の来ない公衆便所の中で、二人は真新しいセブンスターの封を切る。草の匂いが鼻について二人は少し戸惑ったが、あの煙を口から吐き出す自分を想像すると、それはとてつもなく魅力的に思えた。最初の一本は出にくい。爪の端で慎重に最初の一本を引き出すと、たわんだ間に二本目が倒れてくる。兄がやっていたように箱を軽く振ると、進み出るように二本目が頭を出した。その様に伊藤が「おお」と感嘆の声を上げる。
二人しておずおずとタバコを口に咥える。伊藤が持っていたライターでまず高橋のタバコの先に火をつけた。ぐっと煙を吸い込むと、喉の奥に苦いいやらしい物が立ち込めて、「うっ」と思わず高橋は咳き込んでしまう。喉の奥からせり出す不快感に苦しみながら、高橋の耳は伊藤の嘲笑を聞いた。「じゃあ、お前がやってみろよ」と悔し紛れに言うと「おおよ」と伊藤もタバコの先に火をつける。そして彼も、吸うか吸わぬかの所で激しく咳き込んだ。ほらみろ、とばかり高橋も笑う。二人して笑う。
二度、三度と挑戦するうちに、なんとなく喫み方が解ってきた。頭は幾分かくらくらするけれど、咳き込むほどではない。どうにも気分が晴れているような気がする。二人してこんなもんか、と笑いあったあと、吸殻をポケットに隠し持って、異次元のような公衆便所を一歩出た。二人は同時に立ち止まる。

空が赤いのだ。そして人の気配がしない。校舎の中に人の姿がないのである。

二人は顔を見合わせて、再び景色を見た。呆けた伊藤がこんなことを口にする。「タバコってLSD?」んなわけねぇべ、と二人は笑い合ったが違和感は膨れるばかり。時計は;+18を指しているし、針は三つある。何これ、と高橋が震える声で言った時には、二人ともパニックになりかけていた。校舎の下に大きく刻まれている学校名も、何か違う。漢字の部首が多かったり、見たことのない文字が刻まれている。二人は再び顔を見合わせて言った。「どうしよう」
ここは異界だ、と二人は確信する。見た事のない漢字、異様な数字。ふと気がついた高橋が、制服のポケットからアイフォンを取り出した。「なにこれ」
ホーム画面には、やはりみたこともない数字と、不思議な図形が並んでいる。いつもの癖でホームボタンを押すと、そこにはやはり文字化けしたようなアイコンの群れが整列している。
「俺のバグってる、お前のは?」
問われて伊藤もアイフォンを取り出した。そしてホーム画面を確認した伊藤は震える手で、画面を高橋に向ける。
「まじかよ」
呆然とする高橋が、次に取った行動が、タバコを取り出すことであった。それに伊藤の声がかかる。
「何やってんだよ」
高橋のタバコを持った右手をつかむ。うろたえた表情で高橋が言う。
「だってタバコ吸ってこうなったんだから、タバコ吸えば元に戻るだろ」
ありえねえよ、と伊藤が絶叫する。その声に当てられて、高橋もまたむきになる。
誰も居ない世界で、もみ合いながらタバコを奪い合う二人のすぐ後ろに声があった。
「何してるんだ」
お互い、手を止めてその声を見る。「やば、昼下がり」

手の中のタバコは地面に散らばってしまっている。そのタバコを見止めて、昼下がり先生はため息をついた。
「本当はこっちを怒らなくちゃいけないけど、今たぶん君達それどころじゃないでしょう。危ない事はよしなさいね、こっちでも、あっちでも」
そういうと、昼下がり先生は、電話を取り出した。不思議な星の形が刻印された奇妙なアイフォンだった。
「ええ、久々に発見したので。ああはい。あ、私が送っておきますので、あとの処理をお願いします。はーい」
電話を切って、昼下がり先生は二人に言った。「じゃ目を閉じて」
高橋も伊藤も素直にそれに従った。

開けていいよ、と声が聞こえたのはずいぶん遠くからだった。二人は同時に目を開ける。耳の奥に他人の声を捕らえた。それは「帰ってきた」という何よりの証拠だ。
二人はまだ、公衆便所の中に居たが急いで外に駆け出した。そしてまず空をみた。青い。校舎の中に人がいる。漢字も元に戻っているし、数字も元のままだ。すげえ、と笑いながら校舎へと駆け出す。
その視界に入ったのは大きくあくびをする、昼下がり先生の姿だった。


#即興小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?