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僕と月と六ペンス

様々に思う事がある。

特に最近はよく「月と六ペンス」を思うようになって、ずっと昔に読んだあの本を今更何度か読み返している。

例えば、トーマスマンが書き続けていた悲しみと葛藤の根幹がこれなのだろうし、三島由紀夫を殺したものこそがこれなのかもしれない、なんて思っている。

トーマスマンの幸福の意志や、ヴェニスに死す、正に、正にだ。小さきファイドロスよ聞くがよい、とプラトンの饗宴で語られたように。

月はただそこにある。そこにあってただ美しい。多分、それが本質で、僕らが真に求めているものもそれなんだろう。
月の光を手に入れようと僕たちは様々に工夫をした。光を捉えたり、音にもした。文字にもした。そして絵にもした。李白は月を抱こうとして死んだ。

月はただそこにあるだけだ。

饅頭でもない。暖かくもない。祝福もなく、ささやきもない。ただの事象、冷徹な現実、無慈悲な光。それはそれは美しく、月の光に値をつけるならきっと、途方もない金額になるだろう。

だから僕らは六ペンスを握る。六ペンスはパンになる。或いは甘茶に、毛布に。恋人の為の贈り物にもなる。だから僕らは六ペンスから逃げられない。

美しい、とはなんだったか、と考えた。
僕が美しい、と嘆息したものはなんだったか。三島由紀夫の文学だ。時計細工のように正確で、一度組み立てられたら煌びやかな音しか出さない精密機械。感心どころか陶酔した。

美しいとはなんだったか、を考えた。
例えば高島野十郎。あの人が「孤高」のまま描き続けた月。

何度もいうけれど、僕が幼いころ孤独に震えながら見上げた月がそこにあった。高島野十郎と僕がみたものは同じだ、と確信した。

美しいとはなんだったかを考えた
例えば能。極限まで削がれた人形の世界。能の舞に自由は一切ない。足運びから扇の返しまで全て決められている。そのルールの中で舞う「自由」がやがて幽玄となって、美を作り出す。

美しいとはなんだったかを考えた。
漢詩。朗々と上がり、下がり、詠い、絶句。
月下独酌にみる李白の透徹した精神性。酔い、歩み、詩を成した彼。汚泥の美。埃塗れの宝石。

  花間一壺酒  花間 一壺の酒
  独酌無相親  独り酌みて相ひ親しむ無し
  挙杯邀明月  杯を挙げて明月を邀へ
  対影成三人  影に対して三人と成る
  月既不解飲  月既に飲むを解せず
  影徒随我身  影徒らに我が身に随ふ
  暫伴月将影  暫らく月と影とを伴って
  行樂須及春  行樂須らく春に及ぶべし
  我歌月徘徊  我歌へば月徘徊し
  我舞影零乱  我舞へば影零乱す
  醒時同交歓  醒むる時同(とも)に交歓し
  醉后各分散  醉ひて后は各おの分散す
  永結無情遊  永く無情の遊を結び
  相期獏雲漢  相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に


ここまで考えて合点もいったし、恐らくそうなのだろうからそう生きるしかないな、と僕はあきらめた。僕はきっと、月を諦められないんだな。
六ペンスを捨てたいんだな。

最近少し「お金と関わる頻度を少しずつ減らしていこう」と考えている。
お金はつまり人との繋がりだし、切ってはいけないものだけど、不必要なお金は使わないほうがいい。ワンチャン、お金がなくても繋がれる人は存在しますしね。

六ペンスを泉に投げて、沈んでいく間に一句だよ李白。貴方なら何を読む?


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