おいちゃんのこと

遠い昔、書店でアルバイトをしていたことがある。

百貨店やショッピングセンター内などにある間借り店舗ではなく、建物それ全部が書店だったそこには、入りやすさからか土地柄からか、風変わりな常連さんがたくさんいた。

その中に、チャイナ服などちょっと変わった、今で言うコスプレみたいな服をいつも着ている身長150cm台の小柄な「おいちゃん」と呼ばれるおじいさんがいた。
店に来ても本を買うことはめったになかったのだけれど、その書店では、おいちゃんは常連さんとしてなんとなく認知されていた。

常に少し怒気を含み何かを訴えているのだが、呂律の回りのあやしいおいちゃんが何を言っているのか、
ところどころ単語は聞き取れても、意味のなす一連の流れとしては聞き取れず、自分が対応する役回りになってしまった時は、いつも適当にいなしていた。
しかし、聞き取れた中にこの言葉が割とよく出てきた。
「ソレン」「ウラギリ」、それと「シベリア」がどうの、ということも。
そして、「ウラギリダ!ウラギリダ!」と怒っていた。

聞き取りずらいほかたくさんの言葉たちに埋れて、それらの言葉が含む意味を考えることはなかったのだけれど、
アルバイトを辞めて数年後にハッとした。
戦争か。太平洋戦争か…。
アルバイト当時まだ二十歳そこそこで若かったせいもあるけれど、分かれよ自分、と呆然とした。

おいちゃんは書店のカウンターへやってきては、怒りを浮かべて何かを訴えていた。
でもその怒りは店員に向けたものではないことを、店員みんな感じていたと思う。
では何に対する怒りだったのか。
心の内は本人にしか分からない。
戦時中に、おいちゃんの心の一部は絡めとられてしまったのかもしれない。

おいちゃんは楽しそうにしている時もあった。
ある店員さんと、モールス信号ごっこをしている時がそうだった。
二人はカウンターを挟んで「ツーツツーツーツー」などと言い合っていた。

『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』を読みながら、
久しぶりにそんなおいちゃんのことを思い出した。

#エッセイ
#五色の虹

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