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記録|メッシュワークゼミナール#07

私を見て「10代ですか?」と尋ねる人は、この日本国内ではおそらく皆無だろう。おとなと子どもの境界線。20歳の誕生日を迎えたその瞬間から、“おとな“という何かを纏うのだと思ったけどれど、そうでもなかった。私の中にある子どもらしさを探ろうとすると、何だかピンとこないから、きっと今の私は“おとな“として生きているのだろうと思う。でも、もう一回高校生に戻れるかと問われたら、瞬時に戻れる自信はある。

日曜昼下がり、7回目のメッシュワークゼミナール。
土日連続8時間のオンラインは腰にくる。左の腰が痛い。こういう些細な身体の変化を感じるとき、歳をとったものだ、と思う。今日は参加者2名のフィールドワークのシェアになった。
(と、書き始めてからすでに1週間が経とうとしている、土曜朝)

おとな、と、こども

当初、“場“から仕事や職場というものを捉えようとされていたKさん。幾度かの対話やゼミナールの時間を経て、ご自身の意識が「オルタナティブな大人」へのベクトルに変わっていた。自己と自己以外の何かの声を聞きづづけ往還することが大切と理解しているけれど、忙しさにかまけているうちに刻々と時間は過ぎ去ってゆく。

|ディスカッションメモ

・子供が大人になっていく、社会化していくプロセスは、儀礼的な何かを経て行われていく(例えば、七五三、成人式)日本のような儀礼的なものではなくても、大人の男は、通過儀礼を行った人のみが大人になる。
・近代化された私たちにおける“大人““ことも“の定義は変化している。
。子供が生まれるときに親としての自分の仮面をかぶる。
・子供から大人への移行
 ∟主流から分離して、よくわかんないことをして、主流に戻る
・“キャリアは規定できないものなのに、規定せよということへの違和感
・通過儀礼や元服がないために、“大人になる“ということが個へゆだねられている
・日本人は成熟することや老いることに価値がないイメージ
 ∟みんな若くあろうとする。若いということに価値がある
 ∟劣化と成熟とは、また少し感覚が違う
・“成熟したくない“みたいな感覚って何だろう
・わからないことをわからないという

|おとなとは


“おとな“になった今、子どものときよりも「自由」な自分がいる。
稼いだお金でちょっと奮発した晩ご飯を食べる自由、はじめての土地ですぐにタクシーを呼んじゃう自由、二日酔いになるのをわかっていながら深夜まで飲んだくれる自由、週末1日中寝られる自由。43歳・独身・子なし・介護なしの私は、誰かに理由なく拘束されることもなく、気ままに生きられているのかもしれない。その“気ままさ“とは裏腹に、何かに拘束され続けているれるような生きづらさはどこから生まれるのだろう。手放す怖さはどこかくるのだろう。私が、人間が、握りつづいけているものは何なのだろう。

芸術なるもの

人間は“生み出す“生き物だと思っている。
料理を作り、道具を作り、ビジネスを作り、子どもを作る。子どもを産むということを選択しない私は、“生み出す“ことによる最大の人間社会への貢献を放棄している気がして、少しでも代替できるような何かを生み出さなきゃという気持ちが少なからずある。“価値ある自分でありたい、何かを生み出さないと価値がない“と自らに鎖をつける自分の思考が見え隠れする。

“音“や“音楽“に関心を持たれていたMさん。
“音“から“芸術“へとテーマが拡張され、もやもやの真っ只中にいらっしゃるのが伝わってくる。

|ディスカッションメモ

・芸術のエッセンスを学ぶのであれば次元を落としたのほうがいいのではないか。
・作るという行為の先に、意味が添加される。
・芸術をお金に変える場所としてのギャラリー
 ∟プライスレスではあるものの、お金に変えていかなければならない
・資本主義と芸術、ポリティクスと芸術
・揺れ動いているところにフォーカスしてみる
 ∟アートとアートじゃないものの間
 ∟アートに対する忌避やわからなさを見つけるのは難しい
・“アートがわからない“ということのダサさ
・アートであるが事前に規定されていない
・芸術の周縁のかっこよさとは
・憧れ、敷居、概念の輪郭

|感受性


芸術は、芸術家が世界との対話を通じて生み出された(結晶化)されたものである。それを目の当たりにした時、私の身体の中に芸術家が持つ世界への歓喜、憤り、苦しみ、希望など、ありとあらゆる感情が“表現“という大きな波として流れ込んでくる。私の感受性との共鳴、衝突。私の世界には出現してこなかったものを“見せてくれる“行為によって、私の感受性が表層化される現象。

“聴く“とは

ティム・インゴルドにお会いされたKさん。

Kさん:「聴くことの重要性はわかるが、どうやって自分が充分に聴いているかがわかるのですか?」
ティム:「充分わかるということはないよね。共同作業だということを意識しなさい。」

充分に聴くことなんてできないし、充分に話すことなんて、どこまで行ってもできないのかもしれない。聴くという行為自体も、“共にいる“という態度を忘れないように聴き続けていきたい。

週明けの月曜日、小学校でキャリア教育の授業をした。
ちょうどみんなでディスカッションをした「あなたにとって大人とは」という問いを小学6年生の子どもたちに投げたところ、面白い反応が返ってきた。18歳になったら大人だという者。お金を稼いだら大人だという者。でも、小学生でお金を稼いでも大人じゃないという者。

こうやって、他者と遭遇し続けることでしか、私は拡張してゆかないのだ。

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