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記録|メッシュワークゼミナール#03

9月30日、土曜日。

決まった目標に対して定量と定性で進捗を確認する毎日の仕事。30分刻みでスケジュールされているいつものカレンダーに空き時間があると不安になる症候群。無意識のうちにバックキャスティングに偏って思考を運びがちだったり、想定されうる課題に対して仮説を立て検証していくことが求められる日常を少し脇に置き、外側の世界で起きていることを全身で捉え、自分自身の心と体で呼応し思考を巡らせる週末。

という悠長なことを言ってもいられず、勤める会社の上半期が昨日終わり、9時間ばかりのひと息を終え、3回目のゼミに向けて朝から課題図書を猛ダッシュで読み漁る。記録#03は、“編集“という行為をほんの少しだけ試みる。

|Introduction

誰かの書いたエスノグラフィーを読む体験。
地球の裏側に行けば、自分自身の観念や常識とは違う倫理で色々な物事が営まれている。しかしながら、“他者性“とは、言語的な違いや物理的な距離の遠近ではない。一緒に机を並べて仕事をする隣のあの人。異なった価値観は私の身の回りに常に存在し、そこに寄り添おうとする態度が必要とされる。優れたエスノグラフィーを読むということは、書いた人の視点を通して世界を見ていくことなのである。

|『西太平洋の遠洋航海者/B・マリノフスキ』

1-1. “モノ“を巡る私たちの捉え方

私たちの周りにある“モノ“に意識を向けてみよう。
何かを選ぶとき、知らず知らずのうちに「実用的か」とか「使いやすいかどうか」といったユーザビリティにフォーカスしがちになる。しかし、私たちがモノと付き合うとき“有用性“や”実用性“だけで選んでいるのではない。“モノ“を扱うとき、実用性みたいな文脈と、そうではない文脈が、入り混じりながら人との関係を生成している。
本文にある、“クラ“が意味するのも経済合理性だけではなく、“社会的“な意味が存在している。そして、エキゾチックな地域の人たちだけが“非合理“と言われることするのでもなく、私たちの身の周りにも“非合理“は存在しているのだ。“彼ら“は“彼ら“の合理性や社会性の中で生きていて、それは、私たちも同じなのである。

クラ(Kula)は、パプア・ニューギニアのマッシム地方(英語版)で行われる交易である。トロブリアンド諸島、ルイジアード諸島、ウッドラーク島(英語版)、ダントルカストー諸島などの民族によって行われ、クラ交易とも表記される。クラの交易圏は円環状のネットワークであるため、クラ・リングとも呼ばれる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1-2. 話を“聴く“という行為

異なった経済圏や社会圏に生きる人たちとのコミュニケーションにおいて、最初から適切なインタビューは難しい。会話やコミュニケーションのスタイルがその社会にあり、その中で、「質問して答えてもらう」という点においても、純粋な答えがそこであるわけではない。聴く側が持っている政治性や権力性は必ずある。
そして、自然発生的な会話の中で、“わかっていく“というプロセス。“聴く“という行為を通じ、私たちが対象や世界を見ているのかという在り方が、必ず自分に返ってくる。

1-3. “見当ちがい“な解釈とは?

この時代に生きたマリノフスキには、ある種一つの正しいフレームワークがあり、そこに到達するために論じている。西洋人は自文化中心主義の中で、“未開社会“という概念をつくり空想をイメージしていた。それに対してのマリノフスキのアンチテーゼがある。構造主義などの法則何らかの規則性を見出していく、というのは当時の人類学はあった。

1-4. “社会“という構成単位

私たちが“社会“を言及するとき、それは一体何を指しているのか。“社会“というものが想定されていて、思想的なフレームとしてそれがあるのか?全体も個の集積でしかない。
同時に、“われわれ“や“私たち“は誰なのか?“われわれ“がいるということは、同時に“彼ら“がいるということでもある。私たちは、無意識のうちにどこかで線を引いている。“こちらの社会““あちらの社会“の区分の境界線が緩んでいって、グローバライズした今がある。物理的に彼らと我らの距離が縮まった。“私たち“の側が“彼ら“の側を理解しようとする権力構造がそこには存在している。

文化を書く/クリフォード・ジェイムズ/マーカス・ジョージ【編】
 ∟人類学者がある民族を包括的に書くということを行なってきた。
 ∟“書く“という行為の中にある政治性があるのでは。
 ∟書かれてきた人たちが、書いていくということ。

1-5. “創造的な能力“とは

要素間の関係性のリニア的な因果関係ではなく、全体の中の要素は知覚的に、何となく全体をぼんやり眺めていくこと。《実生活の不可量的部分》といった、量ることやデータ化できない実生活の姿を、フィールドにおいて経験することそのものが非常に重要になる。言葉として表層化されていない、“気持ち“まで踏み込みながら観察していくことが大切。

1-6. 自分と対象という視点

日本という国においても地域性や、多様な人、理解できない人、似たような地域に生活している人の間にもヒエラルキーなど、私たちは、“わからない他者“に囲まれて生きている。理解できなささはあるものの、その人たちに対する尊敬の感情も持つということが大切。ただ、“極端な美化“も、客体として物事を見てしまうことになりかねないのではないか。他者を見て、自分を見て、また他者を見て…というタフなアプローチ。

1-7. “幸福“について

“幸福“というような主観的なものは、“誰にとっての“という前提がある。ある人にとっての幸福は、別の人にとっての“幸福“ではないかもしれない。幸福度ランキングも誰かが作った指標の“幸福度“。はかることのできない“幸福“もあるのでは。人類学がやろうとしていることは内側からの視点から見て何なのか、というアプローチ。

1-8. “辻褄を合わせる“ということ

つじつまあわせがない社会なんてないのではないか。私たちは常に、生活の中で非合理な出来事を関連づけながら生きている。因果関係に意味と解釈のパターンが社会の中でさまざまにある。例えば、現代の辻褄合わせは“科学“が担うこともあり、それが昔であれば呪術や迷信などもある。社会の中で共通認識があるか否か。

|『フィールドワークへの挑戦/菅原和孝

2-1. “情報量はあるが面白くない“の正体。

それは、「その人の眼差しがどこにあるのかがわからない」ということではないか。
“書く“ということは、自分のレンズを通して見た世界を編み上げている。毎日フィールドノートに書いたり、聞いていた情報は断片。編み上げ方は、現地の認識のプロセスに近いような編み方をし、提示された。生のマテリアルを並べるのではなく、そのまま伝えるということが、伝えるということではない。現場を見てない人は、情報の読み方がわからないため、“伝え方“において、その人のレンズが必要。
また、課題解決型のフレームワークを無意識の中に使われがちだが、そうなってくるとそこから外れるものは対象にはいらない。“課題“として規定されたところからすでにスタートしてしまっている。限られた範囲の物事しか認識できない。あるものを有用性、実用性から捉えてしまうと、別の文脈で捉えることができなくなる。調査者と対象者のそれがちゃんと書かれていること。文章にすると私たちの“解釈“や“認識“が見えやすくなる。

2-2. 部外者のわたし

フィールドワークにおいて、迷惑でしかありえないし、そいうことからでしかできない。しかし、それが意味を持ってくる。また、人は誰かが耳を傾けてくれるからこそ話せるということはある。ごく普通の人たちの営みを、聴き、書き、残していくことと、土足で彼らの生活に踏み込んでいく葛藤を持ちながらフィールドと向き合っていくプロセス自体に価値がある。

2-3. 取捨選択の自覚化

フィールドワークにおいて、まずはどこかに旗を立てるということが大切である。スタートを切ることによって、何を取捨選択し進んでいくか、という自分自身の視点が明らかになる。掴んだことが全体ではなく、掴みそこねることもあるということを知りながら行きたい方向を見極めていくプロセス。スコープの範囲内は見よう、でも気になることは拾っておこうという行為。開かれた状態にしておくこと、最初から編集してしまわない。逆算的に考えない。

2-4. 普通と普通でない

線を引くというよりは、何によって、どう、その線がひかれているのかを知ろうとすること。揺るぎない何かに立脚しているというよりも、関わりによって私たちの輪郭が生成され、且つそれが変容していくのであれば、記録しておくということが大切になる。
そして、“つくる“という行為は、人に伝える、世界の中に置く、世界の中でそれが意味をなすことを包含している。“つくる“という行為の中には他者の存在があるのである。

|3回目を終えて

ちょうど、4年前、私が携わっていた事業とサービスがなくなった。
なくなった次の日もいつも通り動いている世界とは裏腹に、それを経験した人の心には少なからずざらざらした気持ちを残したのだと思う。あるゆ民族の基盤となっていた“村“と、信じていた“偶像“がなくなり、みんな散り散りになって、残った人々は新たな民族と統合し、二つの文化の間でそれぞれが苦悩し壊れ、その中で人々は離れ、残り、また統合していった。
壊すことでしか新たな芽は育まれない。自分の信じていたものが“ゆらぐ“という瞬間。その“ゆらぎ“と対峙しながら、私たち自身の身体にも心にも、新たな生命が育まれ、あらゆる可能性が拡張し続けていく。毎日は破壊と創造の連続なのだ。

おしまい。

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