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記録|メッシュワークゼミナール#09

自宅から電車で30分、本郷三丁目駅にある東京大学。
日曜午前中、制作展「學藝運動」に足を運ぶ。私が主体として取り扱う何かは、実は違う側面では客体になりうることもある。人間なるものが何かの客体として存在するのであれば、主体となるものは影なのか、意識なのか、感覚なのか、私が見ている世界はどちらが裏でどちらが表なのだろうと思う。

そのまま近くのスターバックスで席を陣取りオンラインゼミナールに入室する。

プロジェクト進捗シェア

◾️Kさん|ジャイナ教

|フィールド
ジャイナ教レストラン、スーパー、路上占い師

|ディスカッション
・当事者は見ているから知っているけど、見ていない誰かに伝わる言語
・距離をはかる
 ∟恐る恐るではなくてもいいのでは。他者の生活に入っているのはある種の暴力性はあるものの、知るためには入り込むことが必要。
 ∟「行ってみて・やってみて・断られる」ことをやってみる。
 ∟知りたいことを隠すのではなく、“知りたい“ということを出す。
・何を知りたいのか
 ∟具体的なことを知っていこうとする態度
 ∟「ジャイナ教を知りたい」となった場合、抽象度が高く、書籍に書かれていることを知りたいわけではない。そこでお店を構えて働いている、その人の日々の“実践“をわかるということが手前のゴール。それが日本の中にあるジャイナ教がどういう風に実践されているのかがわかる。一般的な概念の中で論じても勿体ない。その人が日々どのようにしているのか。ライフヒストリーを聞くのがゴールではないものの、それが間にはさまってくるのはあること。お客様ではなく、別のフレームワークで話すということが大切になってくる。
∟時系列での変化の遷移(広い席へ通されることの意味、チャイが2杯、“久しぶり“と言われることの意味合い→違う感覚で作っているのかな)
∟“ジャイナ教“のレストランのアイデンティティ。
∟日本ではそもそもヴィーガンやベジタリアンのレストランが少ない。
∟調査のまとめかた
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijt/27/67/27_1440/_pdf
  宗教施設にどんなものがあるか、広さ、時間、顧客層・・・
 読み取れないもの“1日張り付いて““ことばを聞いて“実践的なものを明らかにしていく。
 手前にその人たちのおかれている環境、状況をリサーチしておく。

感じたこと
店員さんに出されるチャイが1杯から2杯に変化した時。
大きいテーブルに案内されるようになった時。
彼らと私の間で何かしらの関係性の変容が生じている。初めましての緊張感から、距離を縮めるその変化や過程が興味深い。フィールドワークやインタビューをしようとすると、“参与観察するわたし“が突如として現れ、その関係性にいつもではない一枚のフィルターが入ってしまう。観察者でありながら、その中に没入もしてく、そんな存在になれたらいいなと思う。

◾️Bさん|環境系のアクション・自助グループ

<環境活動イベント>
・アーティストが行っているファッショナブルなもの
 ∟話していたことは身近なことから取り組んでいこうという当たり前のこと。
・企業の中で打ち返すことに精一杯になっている自分と、戦地に想いを馳せることをしている人との思考の違いは何だろう

<自助ケアグループ>
・子ども当事者研究(実践者と子ども)
・「話していいんだよ」という前提があると人は共有できる
・どの対象を見るのか。参加者なのか主体者をみるのかで捉え方は異なっている。

|ディスカッション
・彼らと自分を繋げていたり、隔てているものは何なのだろう
・何をきっかけに活動化になったのだろうか
 ∟どこからが活動で、どこからが活動でないのか
 ∟このゼミもアクティビズム
・集団になることの強いメッセージ性。集団と個々を見た時の印象。

|感じたこと
私が会社で行なっているCSR活動や部活だってある種のアクティビズムであり社会活動なのだが、デモクラシー運動と一線を画すのはなぜだろう。“企業“の声になった途端、正当性も暴力性も拡大していき社会を飲み込んでいく。会社の声という盾を使いながら正論を振りかざしているのではないかと省みる。

◾️Nさん|日常的な逸脱

・まなならないことでのサバイブ
・不真面目なことを真面目に捉える
・“構造“への飽き
・想像力がないせいで、というけれど
 ∟想像力があるからこそ不寛容になるのでは?
 ∟自分と割と近いことを想像できてしまうから?
 ∟助けられる余力(金銭だけでなく時間も)のなさ

|ディスカッション
・職場における葛藤と逸脱
・一つの状況を時間をとってみることがいい。
 ∟人や状況は移り変わっていくのでスナップショットになる。もっと重層的に見えないか。出来事を収集していくことをありだが収集し続けていくことも価値だが、何かを見つけて何かを収集し続けていくと百科事典(出来事事典みたいに)なる。もう少し深いところまで行く。
 ∟固定化された状況の中に身を投じてみる。何度も足を運んでみる。一見同じように見えることを2回、3回繰り返してみていくこと。24時間はりつくことともちょっと違う。
 ∟何をどれだけ見て、考え、つくれる時間があるのだろう。
 ∟単発のイベントを狙っていくよりも、“そこに行けば、そいういうことが起きている“ということを見ていく方がいい。
・何からの“許されなさ“を扱うのか
・“人“は逸脱と思っていないので、“逸脱“を捉えること自体が難しいのでは。
・第三者における“許せなさ“という感情の複雑さ
・規範が厳しいところにいく方が逸脱を見やすい(例:茶道・保育園のママ友の会・私立の小学校の送り迎えの現場・病院・電産の優先席に座りつづける…とか)
 ∟一つのルール・規範が明示的な場所にいく方が観察しやすい
・外側に対してジャッジする人が、自分の立ち位置を明確にするということもあり得る
・同じ人でも一貫していない。言語不一致が生じていることはありうる。
 そこのズレや一貫性のなさが人間らしさ。100%聖人のように生きている人はいない。
 自分の周りを全て敵にしたら自分が生きづらい。日常での使い分けや機微の話になってくるので、レンズを寄せてグッと近づいていくと、何かが見えてくる。

|感じたこと
横断歩道を赤信号で渡っちゃうとか、喫茶店に4時間居座っちゃうとか、納期を守らないとか、ルールからちっちゃくはみ出すことなんてきっと日常茶飯事で、どうにかバレないように、気付かれないように、蓋をして見なかったことにして、しまいの果てに相手の怒りを誘発させることが最近ある。地球にとっちゃ鼻くそくらいのことなんだろうけど、そうも言ってられないのが人間の関係で、対峙する相手がどう感じるのかに思いを馳せながら言動が必要なのだろうと、怒り狂い落胆した相手を見て、ようやくその人の抱える何かを知るのである。知らないから思いを馳せることができない私も同時に出現する。

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