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記録|メッシュワークゼミナール#02

9月23日、土曜日。

朝から小雨の東京で、自宅からオンライン参加。
洗濯も掃除も完了。珈琲と共にiPadの前に座す。

再来週に迫った静岡でのフィールドワークのアナウンス。
最初から“静岡らしさ“を見つけにいく旅ではない。土地の環境や風土は入ってきながらも、見つけやすい場所、見つけにくい場所、人がいる場所、いない場所。静岡という土地、そして対象を通じて、私自身がどのように世界と対峙しているのか観察する旅になりそう。

先週お休みだった最後のひとりの自己紹介を終え、
今日は、『人類学とは何か』精読の時間。


| 集う最後のひとり

Bさん(東京)|IT企業でのUX UIディレクター。人類学との最初の出会いは、ドイツ留学のとき。定性調査で“人類学的なアプローチ“という言葉への懐疑。病という現象が生じることによって家族の在り方が変容する。
参考)『アンソロ・ビジョン/ジリアン・テット

| 『人類学とは何か/ティム・インゴルド』精読

・腑に落ちる瞬間が後からくる。
・身近なところに惹きつけて解釈し、理解する、ということの行き来。
・人類学が扱うテーマや対象も、近代的な単位(例、病院・学校・組織)にシフトしている。
・人類学がどういう風に世界を見ているのか、人類学的な態度で物事に接するとはどういうことか。

第1章 他者を真剣に受け取ること

▼一般的な“生きる“ということに紐づく人生観のギャップ

  • 正解や成功を求める社会がある一方、わかりやすいストーリー的なラインとは違う。一つの線が即興的に伸びていくのか、線が絡み合って、ある種の即興性を持って伸びていく


▼知識と知恵

・"会社員“というコンテクストの中でどう活躍するかとなった場合、“知識“にフォーカスされがち。多くの人が知識を拠り所にして物事を見ているのでは、知識というフィルターを通し論理武装している。
・知識は“蓄える“、知恵は“絞る“。


▼質的データ
・現象の全体があるのはその場だけで、データを抜き取るとこぼれ落ちる。
・記録において、何かが“抜けていく“という感覚。一方で記録に依存している人間がいる。書いていくという限り何かが抜けている。無意識のうちに取り扱っている“データ“は、わかりやすく存在しているというよりは、私たちが見ている世界を抜き取ったものを“データ“というタグをつけている。人類学者もデータを使う。量的データのように隅から隅までのデータのイメージではなく、その人が見た限りにおいて、人類学者が描く限りのものをデータと名づけ取り扱っていく。データを取る行為自体に閉じている。
・フィールドノートに描くということは、フィールドノートに書かない何かを産んでいる。
世界を編集する行為。メモしていることの裏に、メモされないことがある。書くということによってあらわになっていくプロセス。


▼時間と空間の学問
・全ては構造的に安定しているのではなく、常に変化していく。
・絶えず生成し続ける。捉え所のなさを拾おうとしているのではないか。
・人類学が見ているもの
 ∟1.人の変化(時間)
 ∟2.人の関係性(空間)
・常に変化し、関わりあい続ける、ということへの意識。人を見るとその人にフォーカスしてしまう。“今ここ“だけを切り取ってしまう。“今ここ“を起点として広げていく。“今ここ“のスナップショットを撮ることが人類学ではない。
・相関・因果関係はリニアな関係。相関があるのかないのかの世界にある。“相関がない“と言われた時に、関係性がないわけではない。リニア的な世界観における関係と、何かが絡み合っている関係とは同じではない。

▼参与観察
・「他者と共に、生きる」ということに関わること。
・私たちの常識と、そのときその場所に生きている人たちの常識は必ずしも一致しない。
・どうやら別の物差しを持っていて、取捨選択をしていて生きている、ということに気づいていくというプロセス。
・人類学はプロセスを楽しむ学問。私たちの物差しも変化し、彼らの物差しも変化する。私たちだっていつも一つの物差しを持っているわけではない。いつも合理的に同じルールで判断していない。固定化された常識自体も、その時々に応じて使い分けている。
・果たして、信頼(ラポール)関係を築けるのか。
 ∟ 5・10分で築けるものでもない。
 ∟ 人々と共に「with」であり、人々を対象として「of」ではない。
 ∟「一緒にできないかな」と考えることが大切。踊っている人を見るだけではなく、一緒に踊りながら、自分も環境の一部となって、その環境を理解していく。
 ∟ 一番極端な参与は「その共同体の一員となる」 研究対象に心酔しシフトする人もいる。多くの人類学者は対象に“感じ入る“ところがある。グッと迫ってその人と一緒になっていることもあれば、俯瞰してみることも同時に起き続けている。
 ∟「一緒にやる私」「一緒にやる私を見ている私」の両方がいる。
 ∟フィールドノートを作業する私が、「一緒にやる私を見ている私」に引き戻す。両方を意識的にやる。

▼「共に」と「共にではない」という状態
・人間という相手がある話。相手がどういうふうに受け取っているか。
・「共に」ではない状態は相手が一緒にいる人ではないな、と認識している状態。
・ある種の親密さや、一緒にいるんだなという状態は伝わっている。
・ずっとお客様的な扱いをされている状態だと、「共に」という状態ではないのでは。
・秘密を共有したとき。(例|お酒の共有、外からの人が来た時、仕事を振られる時)

▼「ビジネス」と「フィールド」が一直線につながっていかなさ
・コンテキストを共有していない人たちに対してどう伝えるのか。
 ∟定まった目的があるところ、それを達成するものとして、人類学的アプローチを入れることは難しい。ビジネスでは定まった目的が多い。
 ∟「このサービスって何のため」「私たちって社会の中でどんな役割を担っているんだっけ」というところへのアプローチ。その時はリニアな物語を語る必要ではない。実際はいろんなことが複合的に起こっていて、会社は成り立っている。
・狭めるためにフレームワークを使うのではなく、全てが変化しているという中で、使い続けていくということが大切。
「人類学を活用する」ということ自体に問題があるのでは。
・人類学はメソドロジーではない。エスノグラフィーは方法論。
「デザイン」も態度である。
・プロセスが結果を変える。ゴールの方から逆算するのは矛盾する。なぜならプロセスが結果を変えるから。プロセスと結果もリニアな世界像の中にある。
・やらない人にも価値を説明すること。その時の態度とやり方において人類学的な何かが宿っている。

第2章 類似と差異

▼リニアとノンリニア
・「歴史」は後から振り返って述べていくこと自体が、一本の線になっている。リニア的。
・動的な歴史観。「固定化して説明すること」へのアンチテーゼ。
・常に創造しつづけている。生というものが時間の変化に伴って起きている世界観。
・多元的。多声的。plural。一本のリニアな線ではなく、複数の線が絡み合ってできていいく。

ラディカル・オーラル・ヒストリー/保苅 実
 ∟文章や記録があって立証されるもの。それがなければ歴史として立証されないのではないか。アボリジニーは文字記録によって、物事が語られたわけではなく、オーラルヒストリー。文字のない、彼らにとっての“歴史“は口伝によって語られる。認識の話。私たちが生きている世界にも想像できない他者がいる。私たちと地続きにいるということ、対象としてとっていくのではなく、彼らと共にあるということを、どううけ入れていうのかということ。これが多元的ということにつながっていく。

▼文化相対主義
・歴史を語る時の権力構造。
・閉じる磁場が強い現代において、意識的に向かって行こうとしている。
・”未開社会”(マリノフスキー以前の時代には使っていた)
・比較をして民族や社会を切っていくことの分析自体がゴールではない。比較をすることによって見えるものはあるが、比較自体がゴールではない。何かがわかったようになるが、わかったことにはならない。AとBを比べて、AとBが違うということはわかるが、Aというものは掴んでいない。いろんな物をいろんな物として引き受けていくこと。比較して定義することは対象自体を分かろうとすることへは進んでいない。“それをそのままとして扱う“。それをそのままとして扱って、どう論じていくか…。

第3章 ある分断された学

・部分の中に全体を示すものが含まれている。
・個の中に全体を見る
・フラクタルで文化や現象を捉える。個別の中にあるものとシステムが入れ子状になっていると捉える。
ONENESS=統合 というよりも「枝も木!」と捉える見方

第4章 社会的なるものを再考する

・起きている事象が変わったわけではなくて、私たちがどんなふうに意味づけていくのか、どんな風に論じていくのかが時代によって変わっていく。
・学問はある種の心理みたいなものに、ある種の客観的手続で迫っていく。
・人類学にも時代によって全く時代のパラダイムによって支配されている。
・大きなパラダイムですら変化していくのだから、自分たちなりに小さな問いをたくさん立てて、目の前の事象をどう解釈していくか。

第5章 未来に向けた人類学

知識を固定化するのではなく、グラつかせる学問
・視点を変えることによる、意味の変容を促す
・うつろいゆく様々な事物との関係性によって、時間や空間への概念が変容する。
・“無意味“の核を捉え、表層のシステムから排除するされていた敗者を救済するという不可能な試み、既存の完成的な秩序を宙吊りにし、新しい感性的秩序が生まれるためのひびを入れる。
・身体性なしにフィールドワークは成立しない。
・誰に向けて、何のために。複数の眼差しの中に。

|2回目を終えて


「何のために学んでいるのか。資格を取りなさい。それは仕事の役に立つのか。」土曜の朝、母との会話。

何かを学ぼうとすると、始めようとすると、常套句のように言われる。学ぶことに理由は必要なのか。目的がないと学んではいけないのか。仕事に帰着する学びでないといけないのか。と思いつつ、いつも空中戦に終始するので、そんな時はあえて言葉を飲み込む。

私は、人類学という学問そのものの人間や世界に対しての温かな眼差しを感じる態度に惹かれる。リニアな何かでもなかれば、直線的なゴールのための学びでもないし、ハウツーでもなければ、すぐに理解できる簡単なものでもない気もする。ただ、この学問の世界への対峙の仕方に少しでも触れること、間(あいだ)を彷徨うもの、空気、雰囲気、見えないものの存在をそこに置き続けることによって、いかようにも世界は美しく変わっていくのだと信じている。

おしまい。

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