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アレクサンダー・カルダーの霊感

 今回はアレクサンダー・カルダーが、霊感と呼ばれるような特殊な体験を得て彼の代表作である「モビール」を作るに至るまでのお話。ちなみに霊感とは。

霊感(れいかん、英: inspiration)は、神・仏が示す霊妙な感応のこと。また、神や仏が乗り移ったようになる人間の超自然的な感覚。あるいは霊的なものを感じとる心の働き。 理屈(理知的な思考過程など)を経ないままに、何かが直感的に認知されるような心的状態。
また、こうした本来の意味から転じて、芸術家・哲学者・科学者などが説明しがたい形で得た着想、ひらめきのことも指すようになった。

 今回扱う霊感は、最後の一文、説明しがたい形で得た着想、ひらめきのことである。

 私は21歳の春、お金を貯めてイタリア・フランスを2週間をかけて巡る旅をした。そこでは、カラヴァッジョの描いた、実際の人間よりも生気のある女性像を見て感動したり、旬の新鮮なフルーツを使った驚くほど美味しいジェラートを食べたり、足を踏み入れた途端寒気を感じるほど荘厳で、たかーい天井と、細部にまでゴシックの華麗な装飾の施された教会に見惚れたりした。どれもリアルで素晴らしい体験には違いなかったけど、そのような景色の中にいながら「私にはまだ早すぎる」と感じている自分がいた。何をするにもお金の浪費が激しかったし、その時の私は美味しいものを食べたり、美しい街並みを見ることで完全に満たされるまでに成熟していなかった。
 
 当時の私はやっぱりチベットで鳥祭場(チベットでは人が死ぬと、その体を鳥葬場という各村にある丘の上で細かく捌き、ハゲタカに食べさせるのだ。)を見て死を想ったり、自然の多い場所でその土地固有の生活の営みを目の当たりにしたり、大草原や荒野の中で、誰にも邪魔されずに夕日を見て物思いにふける方が好きだった。そう考えると旅には、その人、年齢に適した場所があるように思う。若い頃は、頭の中に様々な思いやいろんな声がこだましているから、すでに人間のために用意された環境の中にいるよりも、悲しいほど何もない場所の方が落ち着いたりする。
 
 私にとって、そのヨーロッパの旅の中で最も価値があった体験は、帰りの飛行機の中だった。それは夜間の飛行だったのだが、飛行機の窓越しに大きな半月を見た。雲ははるか下の方にあり、大気は澄み渡っていた。その日出ていた月が、満月でなかったのもよかった。光が強すぎず、目を痛めずに月を細部まで観察することができたからだ。その月は、太陽光を反射していない部分まで球体の輪郭が確認でき、光と影の境目部分のクレーターまでよく見えた。私はその時に「月は太陽の光を反射して光っている」という頭で理解していただけの事実を、実感として思い知った。そこにあったのは、広大な暗闇の宙に浮かぶ、恐ろしく巨大で無機質で、孤独な球体だった。それは太陽の光を反射するからこそ、私たちに認知され、愛されているに過ぎなかった。そして月がそのような状態にあるということは、地球も同じように孤独な一つの天体にすぎないことを示していた。私はその月を眺めつつ、自分のウォークマンに入っていたドビュッシーの「月の光」を聴きながら眠りに落ちた。


 これが私が霊感と呼べるものを感じた体験の一つで、ここからは現代美術家のアレクサンダー・カルダー[アメリカ 1898-1976]の霊感体験のお話。

 アレクサンダー・カルダーは動く彫刻、「モビール」を作った人として有名だが、カルダーがモビール制作に至るまでには、大きく見て2つの体験が元になっている。それを、彼の略歴とともに見ていくことにする。

 もともとカルダーの家庭は、父と祖父は二代続く公明な彫刻家であり、母親は画家であった。幼いカルダーは作品制作の仕事を請け負った父とともに、一家で全米を転々とする生活をしていた。カルダー自身も芸術家に憧れを抱いていたのだが、彼の父はそれに反対した。父は芸術家という職業が先行きが不安定で、金銭的にも厳しい職業であることをよく知っていたからである。そうしてカルダーはニュージャージー州のスティーブンズ工科大学に入り機械工学を専攻。21歳で卒業する。その後は自動車技師、製図工、治水技師の助手、木材伐採の技師などの仕事を転々といたのち、客船の機関士になった。その時にカルダーは、ある体験をする。それは『H.F.アレクサンダー号』でニューヨークからパナマ運河を通りサンフランシスコに向かう途中の船のデッキでの事だった。彼はその日の早朝、大海原の水平線の上で、昇る太陽と沈む満月が向かい合う様を見た。そこで見た光景は、兼ねてから関心を持っていた天体の運行の不思議を呼び起こすもので、心を打たれたという。彼は自伝の中でこう回想する。

『それはグアテマラ沖の穏やかな海の朝早くだった。巻いたロープの束を寝台代わりに横になっていたら、水平線の一方に燃えるような赤い朝日が昇り始め、もう一方の側に月が銀のコインのようになっているのを見た。』

この体験が、彼を芸術家の道へと導くことになった。

 芸術家になることを決めたカルダーはニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに入学して素描のクラスに入る。その間彼は「サーカス」に魅了され、サーカスのスケッチを描いたり、機械工をしていた時に培った針金の技術でサーカスの動物や芸人を題材にした彫刻作品を作った。卒業後はフランスの美大に移り、機械仕掛けの玩具作りを始める。そしてできた「カルダーのサーカス」はジャン・コクトー[フランスの芸術家。映画監督や批評など多様な才能があり、当時の美術界に影響を与えたの重要人物]を熱狂させたことをきっかけに、パリの前衛芸術家たちの間で有名になる。パリでの「サーカス」上映会を通じて彼はジョアン・ミロ、ジャン・アルプ、マルセル・デュシャンなどの前衛芸術家たちと知り合う。その中でもピエト・モンドリアンと知り合い、彼のアトリエへ訪問したことは彼にかつてないショックを与えた。
 
 モンドリアンのアトリエには赤・青・黄の三原色と白・黒だけを用いた幾何学的な抽象画がいくつか置かれていたが、のみならず壁や家具までまっ白に塗られ、三原色の厚紙が白い壁の各所に貼られ、全体で計算されつくした空間をなしていた。カルダーの自伝によれば、その光景に圧倒されたカルダーは、モンドリアンに「この赤や青の四角がいろいろな方向に振動すれば面白いと思いませんか?」と尋ねたが、モンドリアンは同意しなかったそうだ。「その必要はない。私の絵画では、すでに非常な速度で動いている」と答えた。カルダーはその後すぐに抽象画制作に取り掛かったが、2週間で針金彫刻に戻った。そうして出来た作品は、モンドリアンの作品のように限定された色で、天体の動きをイメージしたシンプルな図形でできた抽象彫刻であった。

 それがのちにモビール と呼ばれる形に変化していく。初めは機械式モビールを制作していたが、故障の恐れがあり、決まった動きしかしないことから、大気の流れによって予測不能な動きをする、よりデリケートなモビールの制作に移行していった。その後、カルダーはかねてから持っていた、宙に浮かぶ天体のような作品を作りたいという想いを、天井から吊り下げる方式を用いることで実現することになった。

ちなみに、「モビール」という名称は、彼の友人であったマルセル・デュシャンが名付けたそうだ。フランス語で「動き」と「動因」の両方の語呂合わせになるそう。美術館などに作品を残している偉大な芸術家たちの多くは、何かしら接点を持っており、影響しあっていたことも明らかになってくる。

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