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一句評 いち。(斎藤秀雄)

餅搗やこんなにジューシーな素敵/斎藤秀雄

短歌の評は毎月書いているけれど、俳句の評というものをまともに書いたことがない。
なので、いつもきりんねこ短歌合評会でお世話になっている斎藤さんの作品を練習台(?)にして、俳句評を書かせてもらうことにした。
上記の句は、短歌俳句誌We第7号に掲載された斎藤さんの句の中で、私が特に好きな一句。
三ヶ月前、私はこの句を以下の画像のように読んだ。

最初、画像にあるように読んだけれど、今読み返すと、この読み方は変。そもそも「ジューシー」は餅搗にかかっていない。「素敵」にかかっている。だから、ジューシーなのは餅搗ではなく、「素敵」。ジューシーという言葉が、餅搗という行為を修飾していないと気付いたとき、してやられた感があった。
じゃあ、ジューシーな素敵ってなに?という疑問が当然湧く。湧かせるように書かれているのだと思う。
多分、ふつう俳句で「ジューシーな素敵」という言い回しはしない。いや、きっと俳句でなくてもしない(素敵な〇〇という言い方が自然)。
不自然さを補うように、頭の中は勝手に句の意味が通るように読みたがる。読みたがった結果、わたしの最初の読み方になる。
しかし、なにか違和感のような、ざらりとした感触が残り続ける。
気になって、何度も読んで、考えてしまう。
「季語+や」で切れる、いかにも俳句的な上五だけれど、読めば読むほど餅搗という季語の輪郭はぼやけていった。餅搗から連想された、「ジューシー」も、「素敵」も、餅搗という世界を修飾しない。それゆえに、上五で立ち上げた餅搗の世界から、読者の焦点がズレてゆく。こんなにも、ジューシー、素敵、という言葉そのものの世界に。
俳句らしくないな、と思う。俳句らしくない、というのは、季語を置き去りにしていること。季語の本意を薄めていること。
そして、それをすぐに悟られないように仕掛けていること(季語を「無い」ものとして書くなら誰にでも出来る)。
そうした仕掛けを面白いと思ってしまうのは、私が俳句のことを何も知らない初心者だからだろうか。
けれど、俳句に限らず、短歌でも詩でも小説でも、どんな形であれ、誰も書いたことのないような新しいものを読んだ時、否応なしに胸が高鳴ってしまう。
餅搗も、素敵さも、ジューシーさも、ただそれはそれとして在るとわかったとき、自分が思っていた俳句らしさ、というのが如何に狭いものだったか、嘲笑された気がした。そして、それを小気味く心地よく感じた。

#俳句評
#一句評


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