考察することへの考察
最近なにか疑問に思ったことってあったかな?情報がありふれたこの状況で、わたしはいつしか自分で考える事をやめていた気がする。というか、思考停止していることさえ気付かず、むしろ、“知っている気”になっていた。
たくさんの情報は、自分が必要なものを選べば健康的。ただ、流れてくる情報を右から左に聞き流し、いかにも自身に取り入れたかのようにしても、結局自分の必要な情報でなかったら、自分の言葉で置き換えて説明出来なかったら、その情報はただのコミュニケーションの‘回覧板’であって、伝言ゲームの一部にすぎない。
今日はなにを疑問に思ったのか、自分はなにに反応したのか?それを、深掘りすること。
数ヶ月前に、あらゆるソーシャルメディアとニュース系のアプリをアンインストールした。(インスタやメッセンジャーはメッセージツールとして必要なときにだけ使う)
流れてくる情報やそこに並べられたものから選ぶのでは無くて、今日いちで自分が引っかかったことを検索する。
たくさんの言語が話せればそれだけソースも増える。
知ったつもりになっていた情報は、結局記憶に長いこと残らずにいつしか忘れてしまうのと対照的に、自分が興味を持って調べたことは自身の成長とともに派生していく。
同じ脳のキャパシティを使うなら、有効活用したもの勝ち。
ということで、一日一考察。
生活に色と奥行きが出てきた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?