見出し画像

自分で自分のこと選んであげたい

阿部広太郎さんの新刊、『あの日、選ばれなかった君へ 新しい自分に生まれ変わるための7枚のメモ』を読んで、思わず語り出したくなったので、久々にnoteを開いた。読者はいつだって自分。
他の方が綴られているようなまとまった感想も綺麗な言葉も書けないけれど、私のために残しておくことにする。

同じ景色を見ても、同じ言葉を使っていても、全くちがうものをみているんじゃないかと、全部知っているような人でも、何にも知らなかったんだなと、思うことがよくある。



動かずには、語らずにはいられなくなる文章を書く阿部さん。この本を世に出してくださって、ありがとうございます。



「あの日、選ばれなかった君へ」

私にとってそれは、誰なのだろうと思いながら、表紙をめくった。
最初は、わからなかった。阿部さんの本で初めて、共感できないかもしれないと思った。
選ばれなくて悔し涙を流したこと、私の記憶にはなかった。
受験も就職もその他の生活のことも、自分なりに願った形を叶えてきた。というよりいつもただ、結果を受け入れて生きてきたような気がした。何が起こっても、そっか、って、どこかで納得する癖は、どこから来てしまったのかと思った。このタイトルを自分ごとだと瞬時に捉えられる人たちは、選ぶ・選ばれるという土俵にもう立っていて、戦っていて、人生の舵取りをしっかり自分で握っている人なのかもしれないと思った。

でも私は、阿部さんの文章が読みたかった。ページをめくった。
気づくと読み終えていた。阿部さんの文章がいつもそうであるように、今回も手は止まらなかった。少し泣いていて、お腹が空いていた。毎日のことなのに、すごく久しぶりに感じた。阿部さんの本を読んで多くの方が綴っていらっしゃるように、私も例に漏れず、これは自分の話だと感じた。

好きだった箇所を、勝手ながら引用させていただきます。

「孤独は人生の起点になる」

(『あの日、選ばれなかった君へ』本文より)

私には、見ず知らずの誰かに私の何がわかるねん、分かってたまるか、と思っている傲慢さがある。そいつを私は嫌というほど知っている。

孤独という言葉に、いつだって反応してしまう。

卒論でも、自分の孤独について書いた。誰にも共有する必要がないと思っていたことを書くのは痛みだった。なんで自分ばかりつらいのだろうと思ったし、食も睡眠も涙もコントロールできなくなった。でも、読んでくれた人から、いろんな言葉をもらった。共感も質問も励ましもあった。知れて良かったと、書いてくれてありがとうと言ってくれた。おおげさじゃなく、あぁ、生きてきて良かったと思った。

生きていたら、もうこれを選ぶしかない、ということがよくある。持っている人といない人がいて、持っている人が憎いとかずるいとか、そういうことじゃなくて、ただ、ただ、言葉にできないことがあるなと思う。どうしようもないことが。自分が持っている人になることも持っていない人になることも途中でなくした人になることもあって、それは簡単な感情で割り切れるものではないと思う。

自分に対して、パワハラしてはいけない

(『あの日、選ばれなかった君へ』本文より)

他者の前で自動的に生成される私が、影で自分にパワハラしている時がある。

働き始めて数週間が経った金曜日の深夜も、私は文字通り食べ続けていた。最寄り駅でカレーとパフェとアイスとパンを平らげ、帰宅する途中の花金の雰囲気に包まれながら胃も食道も悲鳴を上げていた。喉の奥まで食べ物が詰まっているような不快感で呼吸に気を遣った。酒場で楽しそうにしている人たちをみて、なぜこの人たちは自分を他者の中に気軽におけるのだろうと思った。自分を大事にできなかった後悔と罪悪感で消えたかった。他者の前で楽しく笑っていた数時間前の私が私でないように思えた。

認識が変わると状況がよくなることがある。それは突然ふってきた思いつきのようだけど、そんな奇跡ではない。自分にパワハラされる自分を思う時、私は踏み潰された雑草を思い出す。ある日突然花が咲いたように見えても、雑草自身も気づかないうちに起き上がってきた日々があるのだと思う。踏まれる日々の中で、自分とたたかう日々の中で、必死に、弱さも生きているのだと思う。

食べることが好きだと思っていた。過食を止めようと思うのは、自分の容姿が醜くなるからだった。だから欲望をコントロールできない自分を責めた。症状は酷くなる一方だった。
ある時、好きでもないコンビニのパンを無心で食べている時、食べることが苦手なのかもしれないと思った瞬間があった。人間としてなんて不器用なんだと思ったし、涙も止まらなかったけれど、その日、過食は落ち着いた。

加害者が無自覚なように、被害者も無自覚なことがある。萎縮した自分は意思を失う。食べたいものも量もわからない。選ぶことは苦しい。無自覚と無傷は違う。どこかでひずみが出る。そうやって調子を合わせて生きている感じがする。
冷凍したパンをそのまま詰め込んだり、下剤飲んだり、生理不順になるような減量も、よく考えたら(いや、どう考えても)健康的ではない。そんな当たり前のことに、パワハラの渦中にいるときは、気づけない。

本の中では、こんな言葉が続いていた。

大切なのは過去の自分に対して敬意を持って接することだ。

『あの日、選ばれなかった君へ』本文より

自分を労る手段の1つに食事をもっていたいと努力している最近の自分が重なった。ルッキズムについて思い込みを外すのも、私なりの美しさを探していくのも本当に難しい。一歩進んで二歩下がるような日々だけれど、本を読んで、どんな感情にしろ心が動くのは動かないよりも幸せだなと思った。これからも症状は出ると思うが、その時の自分にとっては必要なことなのだと思うようにしたい。過去の自分をないがしろにした、そうせざるを得なかった自分が本来の怒るべきものにきちんと気づけるように。責めないで。


…まとまらないけれど、

読み終わって一番に、noteのタイトルに書いた言葉を思った。前につくのは、孤独でも、じゃない、孤独だから。どうやっても私たちはひとりで、さみしくて、わかってほしくて、わかりたくて、近づきたくて、孤独だから、自分で自分のこと、選んであげたいなと、思った。

阿部さんの経験とは全く違うけれど、私はまたこうやって、阿部さんの言葉を自分なりに取り込んで生きていくのだと思う。あぁ、こうだったなと、私はこうだなと。きっとこの本も、5年後、10年後に読んだら、全く違うところに全く違うことを思ったりするんだろう。そんないろんなとりとめもない、けれど自分にとっては大事なことを思った本でした。


読んでくださった方で気になった方がもしいらっしゃれば、以下、はじめにが全文公開されているので、貼らせてくださいな。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?