SNS時代

 以前、携帯ショップでの待ち時間にたまたま手に取ったビジネス雑誌のinstagramの記事に驚かされたことがある。

 その記事によれば、いわゆる”インスタ映え”を狙う若い人たちは、どうやら「その料理を食べたい」とか「そのスポットに行きたい」というよりも、「その写真を”撮りたい”」という動機がまず先にあるというのだ。

 たとえスマホで手軽に写真が撮れるようになったとしても、思い出として残すためや記念として写真を撮る感覚が筆者には変わらずにあったので、正直その記事を読んだ時は目を疑ってしまった。確かにSNSにアップする目的で写真を撮ることもあるけれど、それはやっぱり付加価値としての要素が大きいからだ。これだけスマホとSNSが普及した時代の中で、本当に知らないところで新しい価値観が生まれていることを目の当たりにしたエピソードである。

 ……ひょっとして、ニュージェネレーションか?

   さては貴様、ニュージェネレーションだな!?

 

 そうなると、ライブハウスやクラブでライブの一部始終をスマホの動画で撮っている人も、ひょっとしたらライブを”観に来ている”のではなくて、やっぱり”撮りに来ている”のかもしれない。

 まぁ、そういう筆者も十年ほど前に中日ドラゴンズが日本一を決めた試合をナゴヤドームで観戦した時に、落合監督の胴上げの瞬間をガラケーのカメラで撮ることに夢中になってしまった過去がある。そして、外野席からズームアップして無理やりに撮ったそのボケボケの胴上げの写真は、確かmixiにアップした覚えがある。

 しかし、その落合監督の胴上げを携帯電話の画面越しではなく、この目にちゃんと焼き付けておかなかったことが、あれから十年以上経った今でも心残りなのだ。

 

 そのような過去が物語るように、今までずっとSNSを頻繁にチェックしてしまうタイプだったし、プライベートのことも含めて割と投稿もマメにするようなタイプだった。

 しかし、現在一番使っているinstagramを執筆用のビジネスアカウントに設定したことをきっかけに、以前よりもSNSと距離を置くようになっていった。

 そして、いざ活動のことしか投稿しないスタンスを取ると、あれだけ気になっていた他人の投稿への関心まで薄れていき、同時に芸能人でもない自分自身が何を食べただとか、どこへ行っただとかといった投稿を頻繁にすることにも、どこか寒気がするようになった(そういう投稿を否定したいわけではない)。

 また、今までSNSを惰性で覗いてしまっていた時間を、例えば本を読んだり映画を観たりなどといった他のことで少しでも有意義に使いたい思うようになったこと、それから、絶えず流れてくる他人の投稿に知らず知らずのうちに嫉妬してストレスを溜めることも減るという効能ももたらしている(そういう人としての器の小ささや、心の狭い自分があらわになることを避けるためでもある)。

 あとは、例えば気になっている異性が何を考えているのかを唐突に覗きたくなかったとか、LINEは未読なのに他のSNSは更新されているとか、そういう男として絶対に表には出したくない女々しさだったり、そんなことで心をかき乱されたりしている自分自身も嫌いだからである。 

 だからといって、それでも過去の名残りから、近頃はtwitterかinstagramのストーリー(二十四時間で消えるのを良いことに)で、活動以外のことを投稿することはある。

 しかしそれも、ある日に登山をした時に頂上でアップしたはずのinstagramのストーリーが上手くアップされていなかったことをきっかけに、そういうプライベートの投稿をする機会も以前よりは減った。

 なぜならその時、「せっかく山に来てまで、何やってんだ」という感情に襲われ、「別に、プライベートのことを頻繁にアップする必要もないじゃないか」と、腑に落ちたからである。

 ふと、「何から何まで知ってもらわなくても良いや」と思ったのだった。

  ちなみに、SNSについてあれこれ考えてしまう背景として、東南アジアを旅している時にスマホを水没した経験がある。

 スマホを水没した後の残りの一ヶ月の旅は、精神的にどんどん解放的になっていったのだ。

 そして、その状態が心地よくなってしまい、日本に帰ってきても数日間はスマホなしで過ごしてしまったほどだった。

 また、SNSについてあれこれ考えてしまうもう一つの背景として、SNSを通して曝け出してしまっていた過去のよろしくない自分自身や、SNS疲れしやすい自分自身に対する戒めの意味合いもある。

 本当に恥ずかしい話なのだけれど、昔は若気の至りも伴ってmixiでは病み日記をしょっちゅう書いてしまったり、instagramをビジネスアカウントにする前までは、書かなくてもいいようなネガティブを匂わせることをたらたらと人目をはばからず書いてしまったりしていた。

 本当に恥ずかしい話なのだけれど、今思えばそれは、独りよがりで視野が狭かったからだ。その場は、自分勝手な発散にはなるかもしれないけれど、それを見させられる人たちのことを、ちゃんと想像できていなかったのである。そして、そんな投稿をしたところで根本的な解決にもならなければ、そこから何も生まれないことに気づけていなかったのだ。

 他にも、SNSを利用する以上、やっぱり未だにいいねの数やフォローワー数などが気になってしまう自分自身がいることを認めざるを得ないのを踏まえたうえで、そこに依存し過ぎないための危機感がどこかでずっとある。

 それから、キラキラした投稿や温かいコメント、時には特定の誰かや何かを中傷する投稿までもがズラッと並ぶこの世界がスカスカに見えてたまに具合が悪いし、実はそういう違和感をずっと抱えてもいるのだ。

 また、音楽をやってる同じ歳の友人に、最近の二十代の若い人たちの間ではそれこそSNS上のいいねや再生回数に重きが置かれていることが珍しくないとも聞いたことがある。

 ネット上に情報が溢れ返っているということは、便利で幸せそうな環境に見えて、ひょっとしたら実は良いことばかりでもないのかもしれない。

 だからといって、SNSにたくさんの恩恵を受けているのも、紛れもない事実である。

 まず何より、活動の告知には欠かせない。他にも、例えば誰かが音源をリリースしたり、個展を開いたりする投稿をSNS上で見かけると、悔しくなる反面、奮い立たされもする。誰かを傷つける可能性がある危うさを踏まえたうえで、やっぱり情報の拡散にも長けている。それに、希薄な関係ではあるけれど、たくさんの同級生と再会もできたし、東南アジアやインドを旅して知り合った人たちと今でも繋がっているのは、やっぱりSNSなのだ。

 つまり。使っているつもりが、いつの間にか”こっちが使われてしまっていた”にならなければ、SNSは人々の生活を豊かにする便利なツールとなる。

 結局は、使い方次第。すなわち、使う人の心持ち次第。

 そもそもこうして文章を書いていることが物語っているように、承認欲求や自己顕示欲の塊のような自分自身だからこそ、SNSとは上手く付き合っていかなくてはいけないとも思っているのだ。

 

 

 SNSがある時代だからこそ、その恩恵を受けて楽しみながら、現実の世界やリアルな繋がりをもっと豊かにできたらと思う。

 SNSでは繋がっているけれど普段なかなか会えなくなってしまった人に久しぶりに会えたのなら、会えていなかったこれまでのことを直接聞いてみたい。

 今近くにいる人でも、SNS上には映らない泥臭い部分も含めて話を聞きたいし、欲を言うならこっちのそういう話も聞いて欲しい。 

 必ずしも踏み込んだりぶつかったりすれば良いというわけではないけれど、そうしなければ知れないことや、わかり合えないことが絶対にあるはずだからだ。

 

 そして、ネガティブなことでもポジティブなことでも生きていて感じたことは、SNSを通してではなく、こうやって文章に書いて伝えたい。

 

 たとえ端くれと言えども、やっぱり物書きでありたいから。

 

 SNSが生活の中心になり得てしまうことや、今や誰でも表現や発信が手軽にできてしまう時代だからこそ、その気持ちは前よりもずっと強くなった。



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